教科書に書いてないホントの話・織田信長 楽市楽座編

歴史ネタ

「好きな歴史上の人物」のランキングで、常にトップの座にかがやく織田信長。大河ドラマの常連であり、『信長協奏曲』や『信長のシェフ』といったコミックにも登場し、若い世代にも親しまれる人物であり、今どきの政治家にはないカリスマ性とリーダーシップ、ドラマティックな生き様と死に様には、人気トップの座に君臨するのも当然といえる魅力がある。

しかし、フィクションとして描かれる織田信長像はもとより、史実に忠実なはずの歴史ドラマにおいても、実像とはかなりのズレがあるケースが多い。それというのも、誰もが義務教育の場で触れる「教科書の中の織田信長」からして「ちょっと……」というところがあるのだ。さすがにあからさまな「嘘」は書いていないが、焦点のあわせ方、強調するポイントがおかしい。ここではそのあたりのことについてまとめたい。

まずは「楽市楽座」について。

 

 

「信長は楽市楽座を行った」

どの教科書にもかならず書いてあるのがコレ。楽市楽座といえば、織田信長の専売特許だと思っている人も多いのではなかろうか。多くの教科書がそう取れそうな書き方をしているせいなのだが、実はそれは事実と異なる。

 

楽市楽座とは

楽市楽座とはどんな政策か。今風に一言でいうと「規制緩和」である。独占販売権、非課税権などの特権をもつ業者の組合(座)を廃止して、誰でも自由に営業できる市場を開く経済政策である。

戦国大名にとっては、座など既得権益層を排除することで新興の商工業者を領国内に集め、経済活動を活発にする手法であり、とうぜん税収アップも期待できるものだった。その反面、「楽=規制緩和」とはいいながら、税を課したり商工業者をコントロールしたりする必要から一部の商人を家臣化・官僚化するケースもあり、経済統制=規制と表裏一体ともいえる部分もあった。

信長が最初ではない

楽市楽座は、織田信長が初めて行ったものではない。初めて楽市楽座を行ったのは大和の守護大名・六角定頼(ろっかく・さだより)という信長よりも40歳ほど年上の人物である。信長が少年だった頃に行われたこの政策により、定頼は観音寺城下を一大商業都市に成長させている。ちなみに、定頼は家臣を城下に住まわせる方針をとった点でも最初期の先駆的な人物である。室町幕府の政治にも影響力をおよぼし、六角家の全盛期を築き上げた名君であった。

 

実はあの人に影響されていた

さらに、意外な事実として、織田信長よりも今川氏真(いまがわうじざね)の方が先に楽市楽座を行っているというのがある。今川氏真といえば、桶狭間で父・今川義元を織田勢に討ち取られ、その跡を継いだが、結局は今川家を大名家としては滅ぼしてしまったことで、あまり評判のよくないあの人だ。それが意外にも、楽市楽座という気の利いた政策もやっているわけで、言われるほど無能でもなかったのではなかろうか。父が偉大すぎたせいで損をしているところがありそうだ。

ということで、今川氏真の方が織田信長よりも先に楽市楽座を行っており、その成功をみた信長が、影響されて翌年にみずからも行った。これが史実なのである。

ちなみに氏真は、大名の地位は失ったもののしぶとく生き延びる。徳川家康の保護を受け、氏真の子の代からは徳川家家臣となり、その家門は幕末まで存続する。喜連川や吉良とともに「高家」とされ、禄高1万石未満ながら大名にならぶ格付けを与えられている。

徳川は、源氏である新田家の家系図に「松平」を書き入れて改ざんしており、そのため源氏の諸家に対して後ろ暗いところがあったのだろう。喜連川、吉良、今川といった源氏の名門は、どれも大事にしている(筆頭は古河公方の流れを汲む喜連川で、徳川に臣従すらしておらず、独立しているという位置づけ)。

 

それほど広く行っていない

たしかに信長は、みずからの領国内で楽市楽座を実施しているが、それは全面的にではなく、かなり限定的だった。実施したのは加納、安土、金森などごく一部だけで、多くの場合は商業地を勢力下に置き協力を得るため、座を存続させて商人や寺社の既得権益を保護している。特に他の勢力を打倒して切り取った新しい所領では、こちらの方がむしろ信長の基本方針だった。また、臣従していた諸大名家に伝達して、それぞれの所領で楽市楽座を行わせることもあったが、土地柄や事情のちがいから、かならずしも行われず、試みられても成功するとはかぎらなかった。

楽市楽座よりも注目すべきは

信長の経済振興策として、楽市楽座よりも高く評価すべきなのは「関所の廃止」と「街道の整備」だろう。

「関所」の性格は時代ごとに大きく異なるが、中世においては、関所とは通行税を徴収するために寺社や地方小勢力が置いたものだった。市場に行くまでに何カ所もの関所を通るとすると、いちいち通行税を取られるので、当然商品や人の移動コストが引き上げられる。流通のさまたげになり、新しい業者の参入への障壁にもなる。

信長は、すべてではないものの、そうした多くの関所を廃止し、流通の円滑化を目指している。寺社が関所を設けるケースも多く、その廃止は、信長と寺社勢力とが対立した原因のひとつとも言われる。

また街道の整備は、関所の廃止と連動する部分もあったが、軍勢の移動をスムーズにするという軍事的目的も兼ねつつ、流通の円滑化のみならず、治安の改善にもつながっており、民衆にも歓迎された施策だった。

 

こうしてみると、多くの教科書が強調している「織田信長の楽市楽座」は、「ちょっとピンボケ」と思われてくるのである。

 

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