教科書に書いてないホントの話・織田信長 鉄砲編(1)

歴史ネタ

「信長」といえば「鉄砲」、「鉄砲」といえば「信長」……というくらい、信長と鉄砲のつながりは印象深いが、これもまた教科書の影響が大きい。織田・徳川連合軍が武田勝頼を退けた「長篠の戦い」に関する記述だ。いわく、「鉄砲を有効に使い……」とか何とか。

信長は、鉄砲という当時の最新兵器の運用にすぐれていたのか。

少しくわしく検討すると、結論はその正反対になる。

 

「鉄砲を効果的に使い、武田の騎馬軍団をしりぞけた」

どの教科書も同工異曲で、だいたいそのように書いているが、これも織田信長の実像を誤解させるものと考えられる。

以下、少し遠回りするところもあるが、見ていきたい。

 

そもそも信長は「いくさ上手」ではない

信長は、政治家・戦略家としては優秀だったが、いくさの進め方から見ても戦績から見ても、戦術家としてはあまり優秀ではなかった。たくみな用兵であざやかに勝った経験は数えるほどしかなく、ほとんどの場合は「数をそろえてゴリ押しで勝つ」パターンだった。逆にいうと、数のうえで優勢にならないかぎりは戦端を開こうとしない慎重さが信長の身上だった。しかもそれでいて、数的優位をもって臨んだいくさでもしばしば負けている。

約5,000の今川義元本隊に対し、約2,000の織田勢が強襲して勝利した桶狭間の戦いは、例外中の例外だ。

これは、作戦目標が「今川義元を討ち取る」というただ一点に明確化されていたうえに、豪雨という幸運も味方したためになされ得た勝利だった。作戦目標を明確化できたのも、それ以外に選択肢がなかったからにすぎず、信長のセンスがすぐれていたわけではない。

桶狭間はあくまでも例外で、信長の戦い方は基本的に「数でゴリ押し」であった。

鉄砲(火縄銃)とはどんな兵器か

火縄銃は、銃口から発射薬と弾丸を込める滑腔砲。二匁半の弾を撃つ一般的なタイプは長さが1メートルを超えるため、立った姿勢で弾こめをしなければならない。そのため、前進しながら射撃する運用には不向きで、基本的には「迎え撃つ」、拠点防衛に向いた兵器と言える。

口径は二匁半の弾で約11ミリ。50メートルくらいまでの至近距離なら現代の銃に遜色のない威力を持つ。ただ、球体なのでかなり空気抵抗が大きく、回転も与えられないため弾道が不安定になりやすい。微妙な装薬量のちがい、槊杖で突く力加減などでも弾道が変わってしまうため、きちんと当てるには相当の熟練が必要だった。

長篠の戦いおける織田家鉄砲隊について考えるにあたっては、連射性がポイントになる。

火縄銃は、①先に布をつけた「かるか」と呼ばれる槊杖で銃身内を拭き、②発射薬を入れ、③弾を入れ、④かるかで押し込んで突き固め、⑤火皿に口薬(点火薬)を入れ火蓋を閉じ、⑥点火した火縄を火挟(ひばさみ)にはさみ、⑦銃を標的に向けて火蓋を切り、⑧引き金をひき火縄で口薬に点火する、といった手順で発砲する。

こうした面倒な手順のため、「火縄銃の連射性は低い」というイメージは一般に広まっている。実際、初弾発砲後、次弾発射まで、ゆっくりていねいにやれば1分ほどはかかってしまう。しかし、実は、熟練者なら20秒以内で次弾発射はできるのである。

たとえば「戦国時代最強の鉄砲傭兵集団」との呼び声高い紀州雑賀衆では、「早合(はやごう)」と呼ばれる、一回分の発射薬と弾丸をセットにして紙で包んだものを用いて手順を簡略化し、2弾目以降は「劣玉(おとりだま)」というごくわずかに径が小さい弾丸を使って銃身内の清掃を省略するといった工夫により、十数秒程度まで発射間隔の短縮を可能にしている。

長篠の戦い・概要

では、本題の長篠の戦いについて全体像をおおまかに振り返る。

武田信玄の後を継いだ武田勝頼が1575年4月、上洛に向けた進軍を再開、同5月に1万5000の兵力で徳川方の長篠城を包囲。長篠城の城兵はわずか500だったが、険阻な要害であったことに加え、200挺もの鉄砲を有していたため頑強に抵抗。しかし兵糧蔵が焼亡したことにより落城寸前となった。

 

一方、5月15日頃のその時点で、岡崎城では徳川家康本隊8,000に織田信長の援軍3万が合流し、後詰(ごづめ、うしろまき)の体制はととのっていた。翌16日に徳川・織田連合軍は長篠城に向け進発。18日に長篠城の手前、設楽原(しだらがはら)に到着。信長は、いくつもの小川が南北方向に流れ、それにそって丘陵が連なっているこの地に、人工の急斜面を作ったり、土塁や馬防柵を設けたりといった、日本の合戦史上まれとされる「野戦築城」をほどこして武田勢を迎え撃つ方針をとった。

 

武田方では、山県昌景、馬場信春、内藤昌豊ら重臣が信長自らの出陣を知り撤退を進言したが、勝頼はそれを退け、決戦を決意。長篠城の抑えに3,000の兵を残し、1万2,000の兵力で設楽原方面に転じた。

 

5月21日早朝、徳川家臣・酒井忠次が率いる2,000と、織田家の鉄砲隊500を含む2,000、あわせて約4,000の別働隊が、長篠城攻略のため武田方が築いた鳶ヶ巣山砦(とびがすやまとりで)を奇襲、陥落させたうえ、武田本隊の退路も扼した。長篠城救援という、徳川・織田方の第一作戦目標はこの時点で達成されている。

ほぼ同時並行して、設楽原の武田勢は徳川・織田方に攻撃を開始、昼過ぎまで約8時間戦闘したが潰走。追撃を受けて1万を超える犠牲を出し、山県、馬場、内藤を含む重臣・幹部クラスにも多数の戦死者を数える壊滅的打撃を受けた。

 

以上が長篠・設楽原の戦いの概要である。

次に、鉄砲編(2)では、この戦いにおける鉄砲について考える。

 

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