教科書に書いてないホントの話・織田信長 鉄砲編(2)

2018年2月5日

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2.長篠の戦いにおける鉄砲

続いて、長篠の戦いにおける鉄砲の数と、いわゆる「三段撃ち」という運用法について考える。

2-1.鉄砲は何挺あったのか

信長が長篠の戦いに投入した鉄砲の数については、3,000という数字がよく挙げられる。その根拠は、小瀬甫庵(おぜほあん)の『信長記』や池田本『信長公記』にある。

小瀬甫庵は安土桃山時代から江戸時代初期にかけての儒学者、医者、エンターテインメント小説家。その『信長記』はほぼフィクションであり、信用性は低い。他方、池田本『信長公記』は太田牛一のオリジナル版を踏まえていることから信用性が高いが、「千挺」と書いた脇に小さく「三」が書き足されている点に信憑性の問題がある。その「三」を、いつ誰が書いたのか、まったくわかっていない。

太田牛一のオリジナル版『信長公記』には、設楽原の決戦に「千挺ばかり」、鳶ヶ巣山砦に向けた別働隊に「五百挺」とあり、合計1,500挺になる。史料上、確実と言えるのはこの数字だ。

しかし、明智光秀が定めた家中軍法では「1,000石につき軍役60人、鉄砲5挺」という規定があり、これを長篠方面に派兵された織田勢3万にあてはめると、鉄砲はおよそ2,500挺と計算できる。光秀は「鉄砲の名手」として知られた人物だったので、規定自体で鉄砲が多めになっていた可能性は否定できない。が、細川藤孝から100人、筒井順慶から50人など、直接参陣していない臣従諸家からも鉄砲供出を求めていること、徳川家にもそれなりに鉄砲の用意はあったはずであることなどを考慮すると、総数で2,500ないし3,000ちかくの鉄砲が使われたと見て不自然ではないだろう。

そのうち、設楽原の決戦に投入された鉄砲が最低数の1,000であったとしても、武田勢1万2,000に対してはかなり多い。2,000程度までふくらんでいたとしたら、当時としてはもはや驚嘆すべき膨大さである。

2-2.三段撃ちは虚構

2-2-1.史料上の問題・誤解の流布

いわゆる「三段撃ち」は、その実在が強く疑問視されている。太田牛一の『信長公記』では、「5人の鉄砲奉行に指揮を執らせた」とあるだけで、何隊に分けたといった話はない。書かれているのは、山県昌景、武田信廉、小幡信真、武田信繁、馬場信春らの隊が次々に突撃してきたのに対し、徳川・織田方からは誰一人打って出ることなく柵のかげからひたすら鉄砲を撃ちかけ、突撃のたびに寄せ手の過半数を倒したという描写である。

他方、江戸時代に小瀬甫庵が著した『信長記』では、「千挺づつ放ち懸け、一段づつ立替わり立替わり打たすべし」との描写がある。甫庵は長篠合戦の頃、まだ10歳そこそこの子どもであり、当然、直接見ても聞いてもいない。その小瀬甫庵が書いた『信長記』とはつまり、「歴史書」ではなく「歴史小説」である。「三段撃ち」というつまりフィクションの出所は、ほぼ『信長記』にあると、現在は考えられている。

さらにこのフィクションを決定的に流布させたのが明治時代に入ってからの日本陸軍だった。陸軍が戦史の教科書、『日本戦史』に、三段撃ちを史実あつかいして載せたことから人口に膾炙、定着したらしい。

 

2-2-2.実践面からの疑問

また、実践面からも考えにくい。

前述したとおり、細川や筒井など諸家から供出させた人数も含んでおり、複数の砲術流派が混在していたと思われ、同期した一斉動作は難しかったと考えられる。「多少訓練をすれば」という考え方もあるが、やはり難しい。長篠合戦の少し後の時代に、オランダでスペインに対する独立戦争を戦ったオラニエ公マウリッツという人物は、マスケット銃(火縄銃)の発砲動作を数十に細分化し、号令のもと大勢の兵の動作を同期させて一斉射撃する運用法を編み出している。これは「三段撃ち」に似ているが、それは最大で10段にもおよぶもので、猛訓練をしないと実践できないものだった。長篠の戦いが「落城寸前の長篠城救援」という切羽詰まった状況で行われたことを考えると、三段撃ちを実現するためにじっくり訓練をほどこすような時間的・精神的余裕はなかっただろう。

また、銃兵の間隔を仮に1メートルとすると、1,000人横隊なら1キロ、333人横隊でも333メートルも伸びる横列になる。号令の声が端まで届いたのか、疑問になる。設楽原の西寄りに布陣して武田勢を迎え撃ったとすると、横列は丘、低地、丘とでこぼこに展開することになり、列の中央あたりで号令したとすると両端にまで声が届くとは考えにくい。

以上、史料の面と実践の面から、三段撃ちの実在は非常にうたがわしいと言える。ただ、三段撃ちを明確に否定する史料もないので、絶対になかったと言い切ることもできない。なんらかの形で「段」を連想させる運用法がなされたのかもしれない。たとえば、斜面を利用して高低差をつけて2段、3段、4段と銃列を配置するのは当時常識的な運用であり、設楽原でもそうしたのかもしれない。野戦築城で小川沿いの丘を急斜面にしたとされる点とも合理的に結びつく。あるいは「3方向から」撃ったのではないかとする説もある。

が、いずれにせよ小瀬甫庵が想像したような運用法は考えにくい。

 

次に、鉄砲編(3)では、あまり知られていない史実から織田家鉄砲隊の実力を考える。

 

歴史ネタ

Posted by izumi