教科書に書いてないホントの話・織田信長 鉄砲編(3)

歴史ネタ

織田家鉄砲隊の真実

さて、ここからがまったく教科書に書いていない話になる。あまり注目されていない史実と引き合わせることで、長篠の戦いにおける織田家鉄砲隊の真実が見えてくる。

その一年前のこと……第3次長島一向一揆

1575年5月、長篠の戦い。

その前年、1574年7月から9月にかけて、伊勢国長島において「第3次長島一向一揆」という合戦があった。1570~1571年の第1次、1573年の第2次に続く、伊勢・長島の願証寺を中心に結集した本願寺勢力と織田信長の戦いである。

 

第1次、第2次長島一向一揆

まず、第1次と第2次の長島一向一揆をざっと見ておこう。

1570年10月、本願寺の顕如は、信長が同寺の破却・退去を要求してきたとして門徒に檄を飛ばし、織田家に抵抗するよう命じた。1580年まで断続的に戦われる「石山合戦」の始まりである。これに呼応して、伊勢長島の願証寺を中心に付近の地侍、百姓、本願寺門徒が蜂起、信長の弟・信興を攻めて自刃させる。

これに対し、信長は1571年5月、5万の兵力で第1次長島侵攻を敢行。村に放火するなどした。しかしその後、いったん兵を引き上げようとしたところを一揆勢の待ち伏せにあい、殿軍の柴田勝家が負傷、代わって殿軍をつとめた氏家卜全らが討ち死にと、大損害をこうむって敗北した。

 

第2次長島侵攻は、1573年9~10月、浅井・朝倉両家の滅亡、足利義昭追放に続く時期に行われた。信長は数万の兵で北伊勢の一揆勢を攻め、一揆勢に協力した「北勢四十八家」と呼ばれる北伊勢の中小勢力を駆逐。長島一向一揆衆にとっては外堀を埋められる形になった。

しかし、水路を抑えるための船の調達が不調に終わったため、信長は長島そのものへの侵攻を断念、10月25日、美濃へ向け帰陣を開始した。しかしその帰途、またも一揆勢の待ち伏せにあい、殿軍の林通政が討ち死に。北伊勢を平定したとはいえ、長島一向一揆鎮圧という作戦目標は不達成、第2次長島侵攻も織田勢の敗退に終わった。

 

第3次長島一向一揆

そして1574年7~9月、第3次長島侵攻では、信長は7~8万という、それまで自身が経験したことのない大軍を動員。九鬼嘉隆(くきよしたか)が率いる志摩水軍の援護も得ており、織田信雄(おだのぶかつ・当時は北畠姓)らも兵を乗せた大船で参陣し、長島を囲む大河は織田勢の軍船で埋め尽くされたという。

このような大軍勢により、一揆方の拠点は分断され、相互の連絡を断たれ、次々に各個撃破されていった。7月中旬頃には、一揆勢は長島、屋長島、中江、篠橋、大鳥居の5城に追い詰められ、織田勢は兵糧攻めに移る。水路が織田方の水軍により封鎖されているので、兵糧の補給は不可能。そのうえ、陥落した各拠点から落ちのびた者が5城に集まったため、兵糧はあっという間に底をついてしまった。

8月2日に大鳥居城が陥落、12日に篠橋城も陥落し、残る長島、屋長島、中江における籠城戦となった。

9月29日、本願寺の坊官・下間賴旦(しもづまらいたん)が「長島に籠もる者の助命」を条件に開城を申し出、信長が受け容れたため降伏した。しかし信長は、長島城から退去する賴旦らに対し鉄砲隊による攻撃を命じ、多数を射殺した。この時に、願証寺法主の顕忍、下間賴旦も討ち死にしている。

これに対して、激怒した一揆衆、およそ800人が織田勢に捨て身の報復攻撃を加え、この際、織田勢は7~800(長篠信長公記)とも1,000人(フロイス日本史)とも言われる戦死者を出した。織田信広、織田信直、織田秀成など織田家の一門衆6名が討ち死にし、佐々成政の嫡男や平手久秀らも加えると重臣クラスの戦死者は10名にのぼる。

これは、第1次から第3次までの長島一向一揆を通じて、織田家臣の戦死者数としては最大の損害であった。それも、ただ1回の衝突において、である。

この事件において注目すべきポイントは、織田信長の鉄砲隊が、二本足で駆けてくる、たった800人の突進を止めることができなかったという点だ。

これが、長篠・設楽原のわずか8ヶ月前の出来事である。

長篠・設楽原の真実

数多くの身内を失った怒りからか、それともおのれの失態に腹が立ったのか、信長は残る屋長島と中江の門徒衆には降伏の機会も与えず、火を放って徹底的に殲滅している。男女あわせて2万人以上が焼死したという。

こうして長島一向一揆は終結した。

 

さて問題は鉄砲隊である。

織田家の鉄砲隊は、1575年5月には武田勢1万2,000をねじ伏せることができた。しかし、その8ヶ月前、長島では800人の突進を止めることができなかった。その800人の大半は武士ではなく百姓であり、しかも数ヶ月続いた兵糧攻めのため、飢餓状態に陥っていた者たちである。

このちがいはいったい何だろうか。
この対比は、いったい何を意味するのだろうか。

 

端的に言うと、「織田家の鉄砲隊は能力がきわめて低かった」ということではないだろうか。
前述したように、熟練者なら十数秒間隔で連射が可能なのだが、そこまでの練度に達した銃兵がほとんどいなかったのだろう。雑賀衆が用いていた早合や劣り玉のような連射技術も導入していなかったにちがいない。そうでなければ、衰弱した800人の徒士を止められないわけがない。

 

では、その一方で、長篠・設楽原の決戦で大戦果をあげられたのはなぜなのか。

それは結局、「数をそろえたから」だろう。火縄銃の低い連射性を改善しないまま、とにかく数をそろえることで手数をかせいで打撃を与えることに腐心した結果、設楽原の武田勢はねじ伏せられてしまったのだ。長篠の戦いに際して信長がとにかく数多くの鉄砲をかき集めようとしていたことは、「細川から100人、筒井から50人」と鉄砲の供出を求めている事実にも合致している。

要するに「数でゴリ押し」という、信長いつものパターンなのである。

 

つまるところ、教科書が広めている「織田信長は鉄砲を有効に使いこなした」というイメージはまったく間違っている。

むしろ逆に、長篠に持ち込んだ鉄砲の大量さは、織田家の鉄砲運用技術が低劣だったことの裏返しだったのだ。

 

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