教科書に書いてないホントの話・織田信長 足利義昭追放編

歴史ネタ

「織田信長は足利義昭を追放し、室町幕府を滅ぼした」

1573年に、織田信長は将軍・足利義昭を京都から追放し、このことによって室町幕府は滅びたと、ほとんどの教科書に書かれている。

しかし、これはもう「ピンボケ」を通り越して、ほぼ「ウソ」のレベルに達している。

織田信長と足利義昭の関係

まずは2人の関係をざっと見渡しておこう。

 

信長と合流する前の義昭

足利義昭は、13代将軍・義輝の弟である。1565年の永禄の変で義輝が三好三人衆(三好長逸、三好宗渭、岩成友通)と松永久通に暗殺された際、覚慶と名乗る僧だった義昭も捕らえられたが、義輝の側近だった和田惟政、細川藤孝らに救出され、近江の六角義賢の保護下、足利将軍家の当主を宣言。上杉輝虎(謙信)、武田信玄、北条氏政の3者に和睦を命じるなど、外交・政務を始め、上洛と幕府再興を目指した。義昭は自分を奉じて上洛してくれるパートナーを探す。

やがて六角義賢や斉藤龍興が三好三人衆の調略により離反したため、義昭は若狭の武田義統を頼ったが、若狭武田氏も弱体化していたので、次に越前の朝倉義景の元に移った(1566年)。しかし義景も弱腰で、三好三人衆を恐れたのか、なかなか上洛しようとしなかった。その間、三好三人衆は足利義栄を擁立して第14代将軍としてしまう(1568年2月)。

同年、義昭は、朝倉家の家臣だった明智光秀の仲介を得て、尾張の織田信長の元へ移った。織田家がもともと三管領のひとつである斯波氏の家臣であった縁から、信長に白羽の矢が立ったのだという。

 

上洛と室町幕府再興

1568年9月、織田信長と浅井長政の軍勢に護衛され、義昭は上洛を開始。六角義賢の攻撃を受けたが退け、京都に到着。三好三人衆は京都から撤退した。また、14代将軍義栄は、まだ30歳そこそこだったが、持病の腫れ物が悪化して急逝してしまう(9月30日)。

10月18日、義昭は第15代将軍に正式に就任。

信長との関係についていえば、将軍職就任前後、しばらくの間は「蜜月」だった。義昭は信長を「室町殿御父(むろまちどのおんちち)」と称し、信長宛の感状にも「御父織田弾正忠殿」との宛名を記した。

 

1569年1月、信長が美濃に帰還したすきを突いて三好三人衆が反撃、義昭が仮御所としていた本圀寺が襲われた(本圀寺の変)。兄・義輝と同じように暗殺されかねない危機だったが、奉公衆(将軍直属の親衛隊)、浅井長政、和田惟政、三好義継らが奮闘して三好三人衆を退けた。この事件を受け、烏丸中御門第という、ほとんど城郭と言える幕府の官邸が建設され、奉公衆や家格の高い守護などが次々と参勤。室町幕府は将軍の権威とともに、完全に再興された。

 

義昭と信長の対立

よく知られているとおり、「蜜月」は長くは続かなかった。

義昭は、幕府の再興・維持と権威向上をめざすあまり、ともすれば権力を乱用しがちになり、信長はこれを抑えるために「殿中御掟(でんちゅうおんおきて)」というルールを義昭に承認させた。一方の信長も、伊勢の北畠氏を攻めたが攻めきれず、義昭の仲介を仰いで和睦しながら、自身の三男(織田信雄)を北畠家に養子として押し込むなど、義昭の意に沿わないふるまいをするようになった。

時代劇やドラマでは、信長がやりたいようにやって、義昭をないがしろにするような形で描かれることが多いが、実際の事績を見る限り、印象はかなり異なる。上記のように将軍の権威を高めようとするあまり、義昭の方が権力の乱用や恣意的な処断に走りがちであり、信長はそれをいさめ、抑えようとしていることの方が多い。全体としてみれば、信長の言い分の方が筋が通っている。やりたい放題やっていたのは義昭の方だった。

 

ともあれ、義昭は信長の排除を意図して、1570年頃から浅井・朝倉両家、本願寺、上杉、武田、毛利などの諸勢力に信長追討を呼びかける「御内書」を送り始める。「御内書」は将軍の私的書簡という位置づけではあったが、法的には将軍の命令としての効力を持つ文書である。義昭はこれを、六角義賢などかつての敵や、兄のかたきでもある三好三人衆、松永久秀にまで送るようになった。

1572年10月、信長が義昭を批判する内容の意見書を突きつけたことをきっかけに、義昭は挙兵。これに呼応して武田信玄も上洛戦を開始し、三方ヶ原で徳川家康を破っている。窮地に陥った信長は何度も和睦を申し入れたが、義昭は拒否。しかし軍事的には義昭側が弱体で、義昭は連敗を重ねた。それでも義昭の方から折れることはなく、信長は天皇の仲介をあおいでようやく和睦にこぎつけた。

ところが義昭は、1573年7月にふたたび槇島城で挙兵。しかし7万の織田勢に包囲され、降伏。ここでようやく、信長は義昭の追放を実行する。

 

義昭の追放=幕府滅亡ではない

有力者の台頭により都を追われたり、脱出したりした将軍は、義昭が最初ではない。一時的にではあれ都を追われたことのある将軍としては7人目(尊氏、義詮、義稙、義澄、義晴、義輝、義昭)である。追放にとどまらず暗殺された将軍も2人(義教、義輝)おり、将軍職を解任された将軍は3人(尊氏、義稙、義澄)で、義稙に至っては2回も解任され、そのうえで最終的には将軍職に復帰している。

そういった将軍の追放・暗殺・解任をいちいち「滅亡」と呼んでいたら、室町幕府は20回も「滅亡」したことになってしまう。

 

義昭は、追放後も将軍職を解官されていない。ずっと後の秀吉政権の時代に自ら辞任するまで、征夷大将軍でいつづけていたのだ。

信長が天皇に働きかければ解官もありえたはずだが、信長はそうしていない。それどころか、信長は義昭を呼び戻そうとしているのである。そもそも追放についてもかなり消極的に見える。自分の追討を命じる御内書を何度も何人にも何通も送られ、2度も挙兵されたあげく、「ようやく」なのだ。

扱いにくい存在であってもなお、信長にとって義昭は、政権の正統性・合法性を支えるピースだった。だから呼び戻そうとしたのだし、事実、帰還の可能性はあると、当時の誰もが思っていた。
義昭と信長を含め、義昭が追放されたことをもって「室町幕府は終わった」と考えた人間は、当時誰一人としていなかったのだ。

 

幕府組織と将軍の権威は健在

追放後、義昭は各地を転々とするが、1576年に毛利輝元の勢力下である備後の鞆(とも)に移った。毛利のほか、宗氏や島津氏の支援を受け、備中の所領や京都五山から得られる収入を足場に、「鞆幕府」と呼ばれる亡命政府活動を行っている。

弱体化はしたが、織田信長勢力下の近畿・東海以外の地域では将軍・義昭の権威は依然として健在で、義昭は相変わらず御内書を発行しまくっている。信長に対抗させるため、武田勝頼、上杉謙信、北条氏政の3者に和睦をすすめ、実際に武田と上杉の和睦は成立するなど成果もあげている。

1582年、本能寺の変で信長が没した後、義昭は帰洛を試み、毛利輝元、羽柴秀吉、柴田勝家らに協力を要請した。それらの諸氏のほか、徳川家康からも支持・賛同は得られたのだが、現実問題として畿内・近畿を中心に信長没後の混乱はしばらく続いていた。そのため、すぐには上洛できなかった。そうこうしているうちに、毛利輝元が秀吉に臣従するなど、秀吉の政権基盤が固まっていき、その地位も関白と、征夷大将軍を圧倒的に上回るところまで追い越してしまった。

 

1586年、島津義久が秀吉への臣従を拒否、秀吉は九州平定の兵をおこすが、この際、義昭は義久に対し秀吉と和睦するよう、将軍として勧告している。

翌1587年、島津氏の降伏後、義昭は京都に帰還。1588年正月に秀吉とともに参内し、将軍職を辞任した。

すなわち、室町幕府が滅亡したのは1588年、ということになる。九州が落ち着くまで、義昭は鞆で将軍としての実務にあたっているのである。

義昭は朝廷から「准三后(じゅんさんごう)」というきわめて高いレベルの待遇を許され、山城の槇島に1万石の領地を与えられた。わずか1万石とはいえ、准三后の地位は摂政・関白よりも上なのである。実質的権力は豊臣秀吉の方が強いが、地位では秀吉よりも上ということだ。

ちなみに、秀吉が征夷大将軍になるため、同い年である義昭の養子になろうとし、義昭に断られたという逸話があるが、真偽の程は定かではない。

 

義昭追放=室町幕府滅亡はウソ

以上見てきたように、1573年の足利義昭追放をもって「室町幕府滅亡」と見なすことは明らかに不当である。にもかかわらず、歴史の教科書にそう書かれているのはなぜなのだろうか。

1573年が「中世の終わり」、「近世の始まり」という、大枠の時代区分の境目に位置づけられているというのが、大きいのかもしれない。いわば大きな決算の締め日なので、「フェードアウト」ではなく、もっと明確な断絶のイメージが必要になったということなのだろう。

だが、事実としては1573年に「断絶」はない。

繰り返すが、足利義昭の追放で室町幕府が滅亡したと考えていた者は、当時誰一人としていなかったのである。

 

 

コメント