関西のおばちゃん・皇極・斉明天皇 1

皇極・斉明天皇が活躍した奈良・飛鳥地方は関西である。

そして、皇極・斉明天皇は、主にその後半生を中心に、おばちゃんであった。

ゆえに、皇極・斉明天皇は「関西のおばちゃん」である。

完璧だ。

以下、「関西のおばちゃん・額田王」で言及した、皇極・斉明天皇を紹介していきたい。

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どんな人だっけ?

だいたい「大化の改新」の頃合の人で、中大兄皇子の母親なのだが、今一つ影が薄いかもしれない。中大兄皇子と中臣鎌足のプレゼンスが強すぎるのだ。しかし、その実像は、「影が薄い」なんてものではなく、えげつないまでに「関西のおばちゃん」なのである。まずはその事績を概観する。

 

史上2人目の女帝

皇極・斉明天皇は、もともと舒明天皇の皇后・宝皇女(たからのひめみこ)。舒明天皇崩御ののちに生じた大王(おおきみ)位継承争いを受け、642年、その緩衝のために即位した。皇極・斉明天皇は推古天皇に次ぐ日本史上2人目の女帝と見なされる。

5世紀末の飯豊皇女(いいとよのひめみこ)も清寧天皇と顕宗天皇との間の短期間、大王として政務を執ったとされ、後世の歴史書(平安時代の『扶桑略記』や室町時代の『本朝皇胤紹運録』)では「飯豊天皇」の記載がある。現在でも宮内庁は天皇として扱っている。しかし即位はしていないとされ、天皇の代数にはカウントせず、「女帝」とは見なされていない。

 

史上初の「生前退位・譲位」を行う

それまでの大王は、すべて死没ののち、次代が大王位を継承していた。皇極天皇は日本史上初めて、弟の軽皇子(かるのみこ)に生前譲位を行い、孝徳天皇として立てた(645年、乙巳の変直後)。2019年(平成31年)4月30日に今上天皇の生前退位が予定されているが、その前例は皇極天皇にはじまる。

記録上初の譲位は継体天皇だが(『日本書紀』)、譲位と崩御が同日同時なので、「生前譲位」とは見なされていない。

 

史上初の「重祚」を行う

大王の位につくことを、玉座にいたる階段(祚・そ)を踏む(践・せん)ことから「践祚(せんそ)」という。この践祚を2度行う(重ねる)ことが「重祚(ちょうそ)」。すなわち、大王が1度退位し、別の大王をはさんで、その後ふたたび即位することを意味する。

この重祚を日本史上初めて行ったのが皇極・斉明天皇だった。重祚した天皇はもう一人しかおらず、それは奈良時代の孝謙・称徳天皇である。

ちなみに中国の王朝ですら最初の重祚が見られたのは7世紀末から8世紀にかけての武則天(ぶそくてん)をはさむ4代で、皇極・斉明天皇の時代よりも少し後のこと。したがって、彼女の重祚は「アジア初」とも言える。

 

外交・外征・いくさ女帝

斉明天皇の時代は、唐や韓半島を中心とした東アジアの一大動乱期にあたる。斉明天皇もこれに応じて、積極的に唐や韓半島諸国との外交に当たった。

その一方で、北方の蝦夷(えみし)に阿倍比羅夫(あべのひらふ)を派遣して平定したり、北海道北部や樺太(サハリン)に存在したという粛慎(みしはせ)を下したりと、周辺の民を臣従させるため軍事力も行使している。

663年に白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗することになる外征でも、斉明天皇みずから船団を率いて進発しており、その途上、九州の筑紫・朝倉宮にて没している(661年)。

巨岩遺跡群

飛鳥の里には、「酒船石遺跡」として総称される、用途も目的も明らかでない奇妙な石造遺跡が点在している。そのほとんどが斉明天皇の時代に造られたもので、『日本書紀』にも「斉明天皇は工事を好み、ワケのわからない水路を造るのに何万人もの人手を動員した」として、民の怨嗟を招いたと書かれている。

謎に包まれた遺跡群だが、どうやら斉明天皇は、仏教でも儒教でもない、道教系の呪術的思想にハマっていたらしい。皇極天皇のときにも、そちら系の武勇伝がある。いわく、「あまりに日照りが続くので、蘇我蝦夷が百済大寺に多数の僧を招いて祈らせたところ、小雨が降った。続いて皇極天皇が祈ると、たちまち大雷雨となり、5日連続で降り続いた」とのこと。降らせすぎじゃないのか?

 

このように、あまり「前例」とか「慣習」とかにとらわれず、ノリノリで新しい画期的なことをしてしまうあたり、概観するだけですでに「元気な関西のおばちゃん」の片鱗が見えてきている。

 

中大兄皇子の母として

中大兄皇子(なかのおおえのみこ)といえば、「大化の改新」を行った人として、多くの人は小学校6年生のときに習ったはず。子どもの頃に習った話は残るもので、その後理系に進んだ人でもしっかり覚えているのではないだろうか。

ところが、その「中大兄皇子」という言葉は、のちに天智天皇となるかの人物を指す呼称としては、実はあまり適切ではない。この言葉は「大王位継承の優先順位が2番目か3番目の皇子」を意味しており、彼以外の別の皇子を指すこともありうる「一般名詞」だからだ。

「のちに天智天皇となるかの人物」を指す固有名としては、「葛城皇子(かつらぎのみこ)」というのがあり、教科書に書くにしてもこちらの方が適切なはずなのだが、どうなのだろうか。……と個人的には思うのだが、完全に世の中に定着してしまっているので、ここでは「中大兄皇子」という呼称を使う。

 

そして実際、中大兄皇子以外に、有力な大王継承候補者は2人いた。山背大兄皇子(やましろおおえのみこ)と古人大兄皇子(ふるひとおおえのみこ)である。

山背大兄皇子は、蘇我馬子政権を支えた厩戸皇子(うまやどのみこ・聖徳太子)の子で、母は馬子の娘の一人、刀自古郎女(とじこのいらつめ)。

古人大兄皇子は、舒明天皇と法提郎媛(ほほてのいらつめ・馬子の娘、刀自古郎女の妹)の間に生まれた皇子。

そして中大兄皇子は、舒明天皇と宝皇女(たからのひめみこ・のちの皇極・斉明天皇)の間に生まれた皇子だった。

 

641年に舒明天皇が崩じると、この3者の間で大王位継承をめぐる暗闘が始まる。

皇極・斉明天皇となる宝皇女は、このときすでに48歳。

完全に「おばちゃん」である。

だが、彼女の人生はここから大きく躍動していく。

 

 

歴史ネタ

Posted by izumi