641年、舒明天皇崩御ののち、山背大兄皇子、古人大兄皇子、中大兄皇子の3者間で、大王位の後継争いが起こる。
ここからが宝皇女の人生、本番である。
大王位継承レースの様相
この時代は、現在のように天皇の嫡流が自動的に皇太子となり、次の天皇になるわけではなかった。大王の位を継ぐためには、他の候補者を殺して力ずくで即位するか(雄略天皇が典型的)、有力豪族の支持を得て推薦されて(今回の場合は特に蘇我氏)即位しなければならなかった。
即位できる王族にはいくつか条件があって、
・大王の5世孫までであること(臣籍降下していないこと)
・生母の実家の身分が低くないこと(地方豪族以下はアウト)
・ある程度の年齢で、経験を重ねていること(だいたい30歳以上)
・人望があること
といったものが課せられていた。このほかにも細かいルールがあったのだが、舒明天皇没後のこの局面で重要になるのは、「女帝の実子は大王位継承者になれない」というルールだ。
3人の大兄皇子の状況
そのうえで3人の大兄皇子たちの大王位継承レースにおけるポジションを見てみると以下のようになる。
① 山背大兄皇子
父は厩戸皇子で、母は蘇我馬子の娘・刀自古郎女。血筋は文句なしで、経験や人望では他の2皇子を圧倒している。そういうスペック面ではポールポジションなのだが……
実は、推古天皇の没後、大王位後継を田村皇子(たむらのみこ)と争ったが、支持者だった境部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ・蘇我氏の傍系支族で蝦夷の叔父)を大臣・蘇我蝦夷が殺害したため脱落、田村皇子が舒明天皇として即位、という過去のいきさつがある。
蘇我蝦夷がなぜ蘇我系の山背大兄皇子を退け、非蘇我系の田村皇子を推したかは諸説あるが、真相は不明。ともあれ、この件により、
・山背大兄皇子と蘇我蝦夷の間には遺恨あり
・蘇我氏宗家が蘇我氏傍系支族からの反目を買う
という事情が生じた。このため、蘇我蝦夷が山背大兄皇子を支持することはありえなかった。
② 古人大兄皇子
父は舒明天皇、母は蘇我馬子の娘で刀自古郎女の妹である法提郎媛。つまり山背大兄皇子と同じく蘇我系。しかし山背大兄皇子とはちがって、蘇我蝦夷との間に遺恨はない。そのため、蘇我蝦夷としては古人大兄皇子が「大王にしたいナンバーワン候補」となる。
③ 中大兄皇子
父は舒明天皇、母は宝皇女。血筋は問題ないが、蘇我氏の血は入っていない。
「皇極・斉明天皇 1」で書いたように、「中大兄皇子」という言葉は「大王位継承の優先順位が2番目か3番目の皇子」を指すものだった。だからこの呼称そのものが、彼のレースにおけるポジションを物語っているのである。すなわち、スタートからして大きく出遅れている、ということ。「2番目か3番目」ではなくて、はっきりと「3番目」だ。
だいたい彼は626年生まれで、まだ16歳だ。あまりにも若すぎる。
言い換えれば、「ふつー大王にはなれないよね」というポジション。さらにいえば「上位の2人に何かない限り、大王になれないよね」という立場。しつこく言えば「上位の2人に何かしないと、大王になれないよね」という位置に立っていたのである。
しかし最終的な結果は誰もが知るところで、彼は権力を握り、天智天皇となっている。
ということは……
ということは……
……たぶん、そういうことなのである。
642年、宝皇女の即位
ところが、レースははじまらなかった。レースそのものを止めるために、大臣・蘇我蝦夷が手を打ったのだ。
それは宝皇女の擁立。宝皇女を皇極天皇として即位させたのである。
これには2つの政治的意味があった。
ひとつには、大王位継承争いをヒートアップさせないために緩衝期間を設けるという意味。しかしこれは、あくまでも表向きの理由で、真の目的は別なところにあった。
そのもうひとつの意味が、「女帝の実子は大王位継承者になれない」というルールに関係してくる。すなわち、「皇極天皇が即位したことで、中大兄皇子は完全にレースから脱落する」ということだ。
蘇我蝦夷は、こうして大王位継承候補者をひとり、「死んだも同然」として蹴落とした。
さらに皇極天皇の即位は、山背大兄皇子の立場から見ると2つの意味を持つ。
ひとつには、古人大兄皇子と山背大兄皇子の2人に大王候補が絞られ、対決が時間の問題となること。
もうひとつには、皇極天皇は自身を擁立した蘇我氏側の陣営に属することになり、中大兄皇子も連動して蘇我=古人大兄皇子陣営に帰することになる、ということ。
つまり、山背大兄皇子は孤立するのである。
しかし山背大兄皇子も、かつて一度大王になりそこねたことがある人物だ。能力も資格も十分にある。今度ばかりは断じて引けない。
こうして山背大兄皇子と蘇我=古人大兄皇子の対立は抜き差しならぬものになっていく。
そして皇極天皇即位と同時に、蘇我入鹿が表舞台に出てくる。
皇極天皇即位に際して、蘇我入鹿が父・蝦夷に代わり国政を掌握。翌643年には父から大臣位を譲られた(『日本書紀』によると大王の裁可を得なかったという)。
上宮王家滅亡
蘇我入鹿が父・蝦夷から大臣位を譲られたのが643年10月。それからほぼ1ヶ月しか経っていない11月上旬、入鹿は家来に命じ100人の兵で斑鳩宮(いかるがのみや・厩戸皇子一族・上宮王家の館)の山背大兄皇子を攻撃させた。斑鳩宮はこのとき焼失。山背大兄皇子と一族、家臣は脱出し生駒山に逃亡した。
生駒山で家臣のひとり三輪文屋君(みわのふみや)が、「東国に逃げて兵を挙げ、蘇我と戦いましょう」とすすめたが、山背大兄皇子は「民をそこないたくない」として断ったという。
山背大兄皇子らは生駒山から斑鳩寺に入り、そこで首をくくって自害。妃妾、子女らもことごとく死亡し、上宮王家は絶えた。当時の王族では、少年少女期の子女を地方豪族に預けて養育させるのがふつうであり、山背大兄皇子もその慣行にしたがっていれば一族全滅は避けられたはずだが、父・厩戸皇子と山背大兄皇子は、例外的に一族全員が斑鳩宮にまとまって居住していた。そのため、厩戸皇子に連なる血筋は完全に絶えてしまった。
こうして蘇我=古人大兄皇子陣営は、最大のライバルを消してレースに勝利した……はずだったのだが……。
史実はそのように展開してはいない。古人大兄皇子も結局は敗者となって身を滅ぼす。
なぜそのようなことになってしまったのか。
また別の史料(『藤氏家伝』)には、「皇極天皇即位に反発した山背大兄皇子が謀反を起こすおそれがあったので、入鹿がほかの王族とはかって攻めた」と、『日本書紀』とはまったく異なるとらえ方が記録されている。
「ほかの王族」とは? 誰のことだろうか。古人大兄皇子が含まれることはたしかだろうが、それだけだろうか。
どちらの史料にも、皇極天皇と中大兄皇子がこの件に際してどう行動したかは書かれていない。
少なくとも、黙認していることはたしかであるが、この点についてはあとで再び考える。
izumi
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