関西のおばちゃん・皇極・斉明天皇 3

2018年2月7日

643年、蘇我入鹿の手により山背大兄皇子とその一族は滅亡。大王位継承争いの帰趨は古人大兄皇子の勝利に定まるかに思われた。が……事はそう簡単には終わらなかった。

 

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乙巳の変

山背大兄皇子が廃されたことで、たしかに古人大兄皇子ひとりに大王位継承者が絞られたように見える。

だが、実際に大王になるのはいつのことだろうか。それまでの慣例から言えば、それは当然、皇極天皇の死後ということになる。皇極天皇は当時49歳であるから、そう遠くない未来だと、入鹿らには思えたのかもしれない。実際には彼女は68歳まで生きるのだが。

 

しかし、その入鹿自身の未来が、そう長くは残されていなかった。

「645年」。

なぜか強烈に頭にこびりついているこの年号。

一般的には「大化の改新」という件名で頭に入っているだろう。

ただし、「大化の改新」というのは厳密に言うと、645年の蘇我入鹿暗殺を出発点として中大兄皇子らが推進した(とされている)一連の政治改革全体を指す、期間の長さを持つ概念だ。蘇我入鹿暗殺事件そのものは「乙巳の変(いっしのへん)」という。

蘇我入鹿暗殺

645年7月10日、三韓(新羅、百済、高句麗)から来た進貢の使者を迎える儀式が板蓋宮大極殿にて行われた。中大兄皇子、中臣鎌足らはこの場を好機として蘇我入鹿暗殺を決行。

蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)が上表文を読み上げるのを合図に斬りかかるはずだったが、手下がびびって斬りかからないため、中大兄皇子が率先して槍で襲う。これを見た手下らもようやく斬りかかり、入鹿は負傷。

倒れた入鹿はこのとき、皇極天皇に向かって叩頭し、「私に何の罪があるのか」と問うたという。皇極天皇はおどろき、中大兄皇子に問う。すると中大兄皇子は「入鹿は王族を滅ぼし、大王位をうばおうとした」と答えた。これを聞いた皇極天皇は、殿中に引っ込んでしまった。

中大兄皇子らは、入鹿にとどめを刺す。

 

古人大兄皇子と蘇我蝦夷

古人大兄皇子もその場にいたが、ことのなりゆきを見て私邸に逃亡。

その場にいなかった蘇我蝦夷は、翌日、館に火を放って自決。ここに、蘇我氏宗家は滅亡した。

 

事件後、古人大兄皇子は、後ろ盾を失った状態になったにもかかわらず、皇極天皇の退位(後述)を受けて大王位への即位をすすめられた。一応、「レースの勝者」だったからである。

しかし古人大兄皇子はこれを危険と判断。断って出家し、吉野に隠退した。

その数ヶ月後、「古人大兄皇子に謀反のくわだてあり」と密告する者があり、これを受けた中大兄皇子は 命じて古人大兄皇子を攻めさせ、殺させた。(「謀反の意あり」として罪を着せ殺すパターンは、この前にも後にもデジャブのように何度も繰り返される。)

 

皇極天皇、生前退位・消去法で孝徳天皇

一方、皇極天皇は事件の2日後、日本史上初の生前退位という形で、大王位を退いている。

退位に際し、皇極天皇は次代大王に中大兄皇子をいったんは指名。しかし中大兄皇子は、中臣鎌足の助言もあってこれを断っている。いわく、「レースの勝者であり、兄でもある古人大兄皇子、さらに皇極天皇の弟であり中大兄皇子の叔父にあたる軽皇子(かるのみこ)を差し置いて即位するのは外聞が悪く、大王位の簒奪(さんだつ)ととられてしまう危険がある」と。

それに、中大兄皇子は依然として若い。19歳である。この当時の大王の資格である「経験」や「人望」という点では、はなはだ心もとない。群臣の支持を得る見込はほとんどなかっただろう。そういう状況で無理に即位すれば、命にも危険がおよびかねない。

ゆえに、この時点での即位見送りは当然の判断と言える。

そこで皇極天皇は、事件の2日後、弟である軽皇子に即位を打診する。しかし、49歳とやや高齢だったこともあり、軽皇子は「古人大兄皇子の方がふさわしい」として3度にわたり辞退。その結果、上記のように古人大兄皇子に即位が打診される。しかし、古人大兄皇子も上記のように固辞。

結局、また軽皇子のところにお鉢が回ってきて、今度は譲位を受け、孝徳天皇として即位。中大兄皇子を立て、皇太子とした。

 

皇極天皇は何をしたのか・何をしなかったのか

皇極・斉明天皇の、いわば任期1期目は642年から645年という短い期間だったが、この間、彼女が果たした役割とは何だったのだろうか。上宮王家滅亡事件と乙巳の変の2事件について検討したい。

 

上宮王家滅亡事件に際して

「関西のおばちゃん・皇極・斉明天皇 2」に書いたように、643年の上宮王家滅亡事件に際して、皇極天皇や中大兄皇子がどのような行動をとったか、はっきり記録した史料はない。積極的に何かすれば何らかの痕跡は残ったはずなので、「ほぼ何もしなかった」と考えるのが一番妥当かもしれない。つまり「入鹿の行動を黙認した」ということだ。

 

ただし、舒明天皇崩御直後の大王位継承レースの状況を思い出してほしい。中大兄皇子は「はっきりと3番目」であり、「上位の2人に何か起こらないと、大王にはなれないよね」というポジションだった。上宮王家滅亡事件は、まさにその「何か」だ。中大兄皇子にとっても利益になるわけで、入鹿の行動を、内心応援していた可能性もあるだろう。

 

それに、『藤氏家伝』が「入鹿はほかの王族とはかって、謀反のおそれがある山背大兄皇子を攻めた」としていることも気になる。

「ほかの王族」とは誰か。古人大兄皇子は当然として、皇極天皇と中大兄皇子も入っていたのではないか。山背大兄皇子暗殺計画の事前協議に加わったうえで、「好意的中立」としての黙認をつらぬいたのではないだろうか。

あるいはもしかして……蘇我入鹿をそそのかし、山背大兄皇子を攻めるよう仕向けたのは皇極天皇と中大兄皇子だったかもしれない。少なくとも、後年の中大兄皇子の事績を考えると、「やつだったらやりかねない」のである。

 

さらに、乙巳の変のとき、蘇我入鹿が「私に何の罪があるのか」と、無実を訴えていることも気になる。その点も含めて、次に。

 

乙巳の変に際して

乙巳の変に際して考えたいポイントは2つ。

ひとつは、「蘇我入鹿、無実の訴え」について。もうひとつは「皇極天皇の生前譲位の意味」だ。

 

なぜ「私に何の罪があるのか」という言葉が出たのか

先に紹介したように、暗殺される際、入鹿は自身の無実を訴えている。「裁かれるようなことは何もしていない」とでも言いたげだ。

では彼の罪状を検討してみよう。『日本書紀』には、「板蓋宮を見下ろす甘樫丘に邸宅を築き、”宮門(みかど)“と呼ばせた」とか、「自分の子どもたちを皇子、皇女と呼ばせた」とか書かれている。それらが事実ならば、入鹿に罪の自覚がなかったわけがない。あの時代、大王位の簒奪や僭称に勝る罪はないのだ。

したがって、それらは『日本書紀』編者らの捏造として脇によけておく。

 

すると何が残るか。

上宮王家滅亡事件である。

これをやったのは紛れもなく蘇我入鹿である。間違いはない。しかし事件後、入鹿は何のとがめも受けていない。これも事実。

では乙巳の変における入鹿の誅殺が、あの事件に対する処罰だったのか。実際、皇極天皇の問いを受けた中大兄皇子は、「王族を滅ぼした」ことを罪状のひとつに挙げている。

その認識の下で、入鹿が「私に何の罪があるのか」と言っていたとしたら……

私はあなたたちが言ったとおりにやっただけだ。私に何の罪があるのか」と言いたかった、ということになりはしないか。

 

つまり、考えようによっては、入鹿の末期の言葉は、上宮王家滅亡事件の首謀者が、実は皇極天皇=中大兄皇子ラインだったという可能性を支持する傍証にもなりうるのである。

さらに、上宮王家滅亡事件の際に軍勢を指揮したのは巨勢徳多(こせのとこた)という入鹿の側近だったのだが、この人物は孝徳天皇治世下、左大臣・阿倍内麻呂(あべのうちまろ)が死に、蘇我倉山田石川麻呂(そがのくらやまだのいしかわまろ)が誅殺されたのち、左大臣に任じられている。
いや、もうね……何と言うかね……「アンタたち、やっちゃってるよね」としか言いようがないのである。

皇極天皇の生前譲位

乙巳の変直後の、皇極天皇生前譲位(退位)については、皇極天皇自身による自発的なものだったのか、中大兄皇子・中臣鎌足らとの協議の結果によるものだったのか、あるいは自身の意に反して中大兄皇子らに強いられてのものだったのか、という点が思案のしどころになる。

そしてもうひとつには、退位/譲位が持った「意味」である。言い換えれば、その目的だ。

 

皇極王権否定説

「意に反して強いられた譲位」という考え方から見ていく。

佐藤長門によると、乙巳の変は、中大兄皇子らによる蘇我氏の否定だけではなく、蘇我氏をそこまで増長させた皇極天皇の王権をも否定する目的があった。この王権否定は皇極天皇の強制的退位という形で行われた。しかし、次の孝徳天皇の皇太子となった中大兄皇子は孝徳天皇とも対立・決別。孝徳天皇の王権を否認したことで、その皇太子としての正統性を失い、これを取り戻すために皇極天皇に重祚させた(斉明天皇)。だが、排除したはずの大王の重祚には激しい反発があり、斉明天皇の失政もあって、重祚を推進した中大兄皇子の威信も傷ついた。661年の斉明天皇崩御後、群臣の支持を得られなかった中大兄皇子は、みずからの即位よりも百済救済を優先させ、群臣の信頼回復の時間を確保するために称制を維持し即位を遅らせた、とする(佐藤長門「七世紀における倭王権の展開過程」)。

 

いろいろな問題をうまく説明できる説だが、疑問もある。

そもそも皇極天皇の在位期間は乙巳の変の時点で3年にすぎず、蘇我氏を放任し増長させたと言われてもさほど長期間ではない。また、皇極天皇は蘇我蝦夷に擁立されたのであり、そのため蘇我氏に対して強い態度には出られない以上、放任・増長の責任を問うのは酷ではないか。さらにいえば、先述の「皇極天皇、雨乞い大成功」の話に現れているように、1期目の皇極天皇は「農耕にまつわる神事・祭事は大王」、「一般政務は大臣(おおまえつきみ)」が行うという、伝統的な役割分担にそって任務に当たっているのであり、この点からも蘇我氏政権を放任・増長させたと責任を問うのは酷であろう。

また、譲位後には孝徳天皇から「皇祖母尊(すめみおやのみこと)」の称号を与えられている。排除も冷遇もされていない。

よって、中大兄皇子が母である皇極天皇を問責し、その意に反して退位させたという可能性は低いと考える。

 

自発的、ないし協議による譲位・その目的

ならば皇極天皇は、みずからの意志で大王位を退いたのだろう。もちろん、中大兄皇子や中臣鎌足らとの協議があって、そこで要請されての譲位という可能性もある。あるいは、入鹿暗殺計画の一環として、前もって予定されていたのかもしれない。いずれにせよ、皇極天皇、中大兄皇子、中臣鎌足は、たがいに対立することなく、中大兄皇子の即位見送り、孝徳天皇への譲位と、事態を動かしていったものと見たい。

それは何のためだったのか。

譲位にともなって実現された重大事がひとつある。

それは「中大兄皇子の立太子」だ。

 

先にも触れたように、「女帝の実子は大王位継承者になれない」というルールがあった。蘇我蝦夷は、中大兄皇子を大王位継承レースから排除する目的も兼ねて、皇極天皇を擁立したのだった。ならば皇極天皇が大王位を退けば、中大兄皇子が次代の大王になることに何の障害もなくなる。

そして実際に、孝徳天皇は即位と同時に中大兄皇子を立太子しているのだ。

 

「女帝の実子は大王位継承者になれない」というルールの抜け道を通って合法的・正統的に中大兄皇子を皇太子に立て、同時にその地位をおびやかしかねない有力で危険な巨大豪族・蘇我氏を排除する。

それが乙巳の変というクーデターの全体像だったのではないだろうか。

 

言い換えれば、皇極天皇は譲位することによって、中大兄皇子に大王位継承レース勝利のチェッカーフラッグを振ったのである。

 

 

歴史ネタ

Posted by izumi