関西のおばちゃん・皇極・斉明天皇 5

関西のおばちゃん・皇極・斉明天皇 5

歴史ネタ

中大兄皇子は孝徳天皇と対立し、653年、天皇を難波長柄豊碕宮に置いたまま、皇祖母尊、孝徳皇后・間人皇女、大海人皇子をはじめ、公卿大夫、百官を引き連れて飛鳥川辺行宮に移ってしまい、その翌年に孝徳天皇は病死している。

その後、皇祖母尊・皇極元天皇が重祚。ということで、大王2期目の斉明天皇が実にいろいろとやらかしてくれるのだが、それを見る前に、孝徳天皇と中大兄皇子の対立とは何だったのか見ておきたい。

 

中大兄皇子らにとって孝徳天皇とは

中大兄皇子たちから見た孝徳天皇の存在意義を軽く整理する。

645年、乙巳の変の時点では、

・中大兄皇子がまだ若すぎる

・古人大兄皇子や軽皇子など年長者を差し置いて即位すると大王位簒奪ととられかねない

といった理由から、中大兄皇子は即位を見送ったのだった。

その一方で、皇極天皇は息子の中大兄皇子を大王位継承者とするため、何とか女帝の座から降りたかった。そのためには誰かに大王位を譲らなければならない。

その「誰か」は、別に古人大兄皇子でもよかったのだが(蘇我という後ろ盾がないので御しやすいし、その気になればいつでも殺せるので)、当時50歳ちかくと、やや高齢だった軽皇子の方が望ましかったのだろう。中大兄皇子が即位適齢期の30歳を超えるまで約10年あり、そのくらい持ってくれればちょうどいい、と考えれば。

そのため、前述のとおり、3度断られたにもかかわらず、重ねて頼み込んでようやく大王位を受けてもらっている。そのくらい七重の膝を八重に折って拝み倒すまでに、大王位の受け皿として軽皇子の存在は必要だったわけだ。

 

だが、いったん軽皇子が即位して孝徳天皇となり、中大兄皇子が立太子されてしまえば、もう天皇は用済みといえば用済みである。そうなると、中大兄皇子のことであるから殺しかねないところ。しかし上記のように、中大兄皇子の即位適齢期までの時間稼ぎもあるので、さしあたり積極的に殺す理由もない。というよりも、殺してそれがバレてしまえば、それこそ大王位簒奪ということになり、かえって自身に危険がおよぶ。

ということで、中大兄皇子にとって孝徳天皇は、特にこびへつらうでもなく、かといって逆らうでもなく、つかず離れずで共存できる存在だったのだろう。

先に記したように、孝徳天皇は即位後、皇極前天皇に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号をたてまつり、中大兄皇子を皇太子としている。このように最初のうちは「蜜月」だった。そして孝徳天皇治世下の事績を見る限り、対立の気配を感じさせるものはまったくない。

それが対立するにいたるとは、いったい何があったのだろうか。

 

唐突すぎる対立

繰り返すが、孝徳天皇治世下、中大兄皇子らと孝徳天皇が対立する気配はまったく感じられない。それが653年になって突然、中大兄皇子が飛鳥への遷都を願い出、孝徳天皇が拒否するという対立が起きる。645年から数えて8年後。いかにも唐突だ。

 

なにゆえの遷都?

難波長柄豊碕宮は、645年に孝徳天皇が発意し、中大兄皇子が企画して工事に着手。大阪城の南側に発掘された遺構跡から、その宮が広壮にして大規模なものであったことがわかっており、その工事が完成したのは652年のこと。

ということは、中大兄皇子らの飛鳥帰還の前年に完成したことになる。まさに「完成したてのホヤホヤ」で、孝徳天皇がその放棄と飛鳥への帰還を請われても、とうてい応じられなかった気持ちはよくわかる。

孝徳天皇が拒否した気持ちはわかるが、飛鳥帰還を望んだ中大兄皇子側の理由がわからない。

孝徳天皇が飛鳥板蓋宮から難波長柄豊碕宮に遷都した理由は、推測だが、

・蘇我氏の影が色濃く残る飛鳥の地を離れ、人心の一新をはかる

・難波は水路の便が良く、大陸や韓半島との交流に便利

という2つがありうる。

すると前者に関連して、649年に蘇我倉山田石川麻呂の粛清があり、飛鳥の地において蘇我氏に対する憂いがなくなったため、帰還することにした、という可能性が考えられる。後者に関しては、「まあ難波でも飛鳥でもそんなに変わりはないか」という程度だったかもしれない。

だとしても、是非とも飛鳥に戻りたいという積極的な理由になるとも思えない。

実際、難波宮は飛鳥遷都後も孝徳天皇没後も放棄されず維持されており、「副都」のような扱いをされているのだ。

 

中大兄皇子と間人皇女の近親相姦不倫疑惑

孝徳天皇の后であり、中大兄皇子の同母妹である間人皇女(はしひとのひめみこ)と中大兄皇子との近親相姦・不倫疑惑説もある。

王族間の近親結婚は珍しくなかったが(たとえば大海人皇子と大田皇女、鸕野讃良皇女らは伯父と姪の関係)、同じ腹から産まれた兄弟姉妹との恋愛・結婚は「国つ罪」とされる重大なタブーとされ、過去、これが理由で王族から除籍された者もいた。中大兄皇子と間人皇女がこの関係にあり、孝徳天皇の皇后に手を出すという重大な罪をも同時に犯していた、とする説。

この説によれば、

・孝徳天皇と中大兄皇子が対立した理由

・孝徳天皇没後、中大兄皇子が即位できなかった理由(群臣の支持が得られない)

・斉明天皇没後も即位できず、668年にまで即位がずれ込んだ理由(間人皇女は665年に逝去)

のすべてが説明できるため、説得力がある。

また『日本書紀』には、皇祖母尊らが飛鳥に帰っていく際、孝徳天皇が間人皇女に贈った歌として、

 

金木着け 吾が飼ふ駒は 引出せず 吾が飼ふ駒を 人見つらむか

 

というものが残されている。「駒」が間人皇女をたとえる表現ととらえ、古代の「見る」が恋愛・結婚を含意するものだったことを考えると、間人皇女を別の男に取られた嘆きを詠んだ歌との解釈ができる、という説もある。

 

さらに、孝徳天皇と間人皇女の年齢差も気になる。645年当時で孝徳天皇は49歳。間人皇女は生年不詳だが、中大兄皇子と大海人皇子の間ということなので、その当時15~17歳くらい。30歳以上、年が離れている。想像だが、もともと孝徳天皇との婚姻は間人皇女の意に添わぬもので、8年間がまんしていたけれど、653年になって中大兄皇子との近親相姦不倫がバレたのを機に、「あんなおっさん、もうイヤ! がまんの限界!」と言って母と兄に孝徳天皇から離れたいと伝え、天皇ができたばかりの難波宮から離れないことを見越して飛鳥行きをねだり、母と兄はこれを聞き入れた……という筋書きだとすると、一通りの説明はつく。

 

それにしても、中大兄皇子が女性に不自由することはまったくなかったわけで、巨大なリスクを冒してまで実の妹にこだわるとは考えにくい。これが「近親相姦不倫説」の決定的難点だ。

「金木着け……」の歌にしても、自分を見捨てて飛鳥に向かった間人皇女に対して、「誰か別の男のところへでも行くのか」と皮肉をこめて詠んでいるだけで、その相手が中大兄皇子と断じているわけではない。また中大兄皇子を念頭に置いていたとしても、皇子と皇后を恨むあまり「そういう関係だから付いていくというわけか」と邪推しているだけとも考えられる。

多くの疑問点を説明できる説だが、不自然さは否めない。

 

ちょっとした仲違い?

あんまりたいしたことない「対立」だったのかもしれない。記録に残すまでもない話だから残っていない、とか。こう言うと身も蓋もないのだが……。

 

実は孝徳天皇、皇祖母尊らが飛鳥へ去ってしまった653年の翌年654年の正月、中臣鎌足を紫冠に昇進させ、加増しているのだ。鎌足といえば中大兄皇子の腹心中の腹心。その昇進、昇給である。中大兄皇子らに向けた、「もう怒ってないよ、戻っておいで」というメッセージととれなくもない。

 

さらに同年10月、孝徳天皇が病に倒れると、見舞いのため、中大兄皇子は皇祖母尊、皇后、大海人皇子、公卿らを率いて難波宮に赴いている。前年、飛鳥川辺行宮に向かった顔ぶれが、ほとんどそっくりそのまま戻ってきている形になる。孝徳天皇は結局10月10日に崩御してしまうので、彼らの再会は文字通り「いまわの際」のものであり、そこで和解が成った可能性は高い。よく「孝徳天皇は孤独のうちに死んだ」と言われるが、実際には、姉、妻、2人の甥に見取られて死んでいるのである。

 

もし天皇が持ち直してもう少し長生きしていたら、元通り仲良く政権を運営する日々が続いたかもしれない。現実にはそうした日々がまったくないまま終わってしまったので、中大兄皇子らが天皇を孤立させ、ストレス死においやったかのように見える図式だけが残されてしまった、ということではないだろうか。

 

そうだとすれば、653年のできごとは、孝徳天皇と中大兄皇子の間での、政治に関する、些細ではないがさほど重大でもない意見の食い違いが生じ、中大兄皇子が抗議のため「プチ家出」を敢行し、その効果を高めるために母や妹、弟、公卿、百官まで巻き込んだ……といったようなことだったのではないか。本質的にはただの家出でも、権力者がやらかすとこんなにもはた迷惑で、後世の者の頭を悩ませるという話なのかもしれない。

 

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