関西のおばちゃん・皇極・斉明天皇 6

歴史ネタ

孝徳天皇と中大兄皇子の対立の真相は、結局のところよくわからない。よって、いろいろな可能性を考えるだけにとどめておくことにしたい。

 

さて、654年に孝徳天皇は崩御。同年末の葬儀を経て、翌655年、皇祖母尊が重祚して斉明天皇が即位する。

ここで、「孝徳天皇の皇太子」だったはずの中大兄皇子がどうして即位しなかったのか、あるいは、即位できなかったのか、考える。

 

皇祖母尊による重祚の背景

かあちゃんがやりたがったのでは?

皇祖母尊自身が再登板を望んだ可能性。

「ねえ葛城皇子ちゃん、母にもう一度やらせてくれないかしら。前やったとき、けっこう楽しかったのよ、大王ライフ。いいじゃないの、どうせあたしは老い先みじかいんだし(655年当時、62歳)、あんたまだ若いんだから」てな感じで、みずから名乗りを上げたのかもしれない。

事実、661年まで、大王2期目の斉明天皇はノリノリで大王ライフをエンジョイする。宮を造りまくるわ、ワケのわからん石造建築を造りまくるわ、北海道・樺太まで兵を派遣して蝦夷、粛慎を平定し、果ては唐・新羅との合戦を決意して軍船団をみずから率いるわと、まさにやりたい放題。

関西のおばちゃんぶりを遺憾なく発揮するのは、この6年の間なのであった。

みずから名乗りを上げるところまではしなかったとしても、「やれと言われればやる」、積極的に引き受ける気持ちはあっただろう。

中大兄皇子、まだ微妙に若すぎる

中大兄皇子は655年当時、29歳。

先に記したように、大王に求められる資格としての「経験」や「人望」に関連して、おおむね30歳以上である必要があった。

29歳。

微妙である。

だが、孝徳天皇治世下における8年間の実績を考えに入れれば、「年齢のわりには経験は十分」と言えるのではないだろうか。

この「経験」に対する評価については、ふた通りの考え方ができる。

あんまり実績を積んでいないからダメという可能性

前述のように、いわゆる「大化の改新」については後代の『日本書紀』編纂時の潤色・捏造が疑われる部分があり、実際に何をどこまでやったかは議論の余地があるところ。

仮に「大半がウソ」だったとしたら、孝徳天皇治世下の中大兄皇子の業績はほとんどなかったことになり、経験はスカスカという評価になる。

かくも経験不足では群臣の支持が得られず、即位はできなかった、という可能性。

 

かなり実績を上げていたからダメという可能性

まったく正反対に、「中大兄皇子がかなりがんばっていたから、逆にそのせいでダメ」という可能性もある。

 

大化の改新の基本的な方向性は「大王への集権化」に向いていた。教科書には「公地公民」なんて書いてあるが、それこそ『日本書紀』用語であって、「諸豪族の土地と人民をすべて取り上げ、大王のものとする」などということを中大兄皇子の時代に言い出そうものなら、あらゆる豪族が全力を挙げて殺しに来るレベルのさわぎになる。

実際にははるかにマイルドな妥協的・漸進的進め方がされていて、軍事力をもちいて平定した周縁の民でさえ、臣従させ官職をあたえたうえで、そのまま以前の土地・人民の支配権を認める、冊封体制に近い形で行っている。

古くから大和王権と付き合いのある豪族たちに対してはもっとマイルドだ。

 

それでも基本的な方向は「大王集権化」ではある。当時、唐と韓半島の情勢は急速に緊迫化しており、これに対応していくためにも、大王のリーダーシップを高める必要はあった。

そのため、孝徳天皇と中大兄皇子がとる施策は、多かれ少なかれ諸豪族の利権・権限を制限するものにならざるを得なかった。たとえば646年、中大兄皇子は孝徳天皇にみずからの所領を献上している。もちろんポーズというか、パフォーマンスだが、そうして「身を切る」姿勢を見せることで、諸豪族に対して「オレがこうするんだからおまえらもこうしろ」というメッセージを発しているのである。

 

すると、そういう施策をやればやるほど、孝徳天皇も中大兄皇子も諸豪族から嫌われていくことになる。

つまり、中大兄皇子は孝徳天皇を補弼する体を見せつつ、実は自分が主体となって大王集権化に向けた施策をガンガンやっていたため、逆に群臣の支持が得られず、即位できなかった……という可能性もある。

 

なんかそれじゃ、どっちみちダメじゃね?

そう、どっちみちダメなのである。

だから皇祖母尊が重祚したのだ。史上初の生前退位につづき、史上初の重祚。

「私の前に道はない。私の後ろに道は出来る。史上初って快感よね」とか何とか言いながら、ノリノリで重祚したにちがいない。その後はやりたい放題だ。とりあえずさわりだけ書くと、斉明天皇元年に板蓋宮が火災にあうと飛鳥川原宮に移り、翌年、飛鳥岡本宮を造営、遷都。多武峰にも宮を造り、ぼつぼつ民衆から怨嗟の声もあがってくるが、気にせず吉野宮も造営。関西のおばちゃん、向かうところ敵なし。

 

なお、忘れていたが孝徳天皇には唯一の皇子・有間皇子(ありまのみこ)がいた。

有間皇子が大王位への対抗馬になりえたかどうか、について簡単に。

655年、有間皇子、15歳。

まったくもって、問題外。だが、ゆくゆくは……問題になるかもしれない。

 

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