関西のおばちゃん・皇極・斉明天皇 7

関西のおばちゃん・皇極・斉明天皇 7

歴史ネタ

重祚後、斉明天皇の暴走はとまらない。即位のその年に小墾田宮を造営しようとして中止。板蓋宮が火災にあったため飛鳥川原宮に遷幸。その翌年がすごい。飛鳥岡本宮、吉野宮を立て続けに造営、さらに多武峰にも両槻宮を造り、これにともなって香具山から石上山まで溝(運河)を掘って巨石を運ばせ、石垣を巡らせたという。この運河工事が世の人から「狂心の渠(たぶれこころのみぞ)」と批判の声を浴びたと、『日本書紀』にある。

中大兄皇子には、この母の暴走を止めることがまったくできていない。大王2期目の斉明天皇はもはや中大兄皇子の傀儡ではなく、主体的にみずから「まつりごと」を切り盛りしていると言えるだろう。そのことは、「あの事件」からも見て取れる。

 

有間皇子の粛清

その事件とは有間皇子の粛清である。まず簡単にいきさつを整理しよう。

 

有間皇子、狂気をよそおう

有間皇子は640年生まれ。孝徳天皇の忘れ形見で、母は左大臣・阿部内麻呂の娘・小足媛(おたらしひめ)。

前述のように655年の時点では弱冠15歳であり、大王位をうかがうにはあまりにも若すぎるため、さほど危険視される存在だったとも思われない。ただ、優秀な若者だったようであり、将来を嘱望されていたところはあったのだろう。また、皇祖母尊、皇后、皇太子、皇弟に置き去りにされた父・孝徳天皇の姿を見ていただろうし、前述のように最後の最後で和解が成った可能性もあるが、斉明天皇らに対し「父の寿命を縮めた」という恨みの念を持っていたとしても不思議はない。

さて657年、『日本書紀』に「有間皇子性黠(ひととなりさとくして)陽狂(うはりくるひす)」、つまり、「有間皇子はかしこかったので狂気をよそおった」とある。彼自身、なんらかの身の危険を感じていたため、にらまれるのを避けるために狂気を演じたということだ。

ところが有間皇子は、牟婁の湯(むろのゆ・現在の南紀白浜温泉)に湯治に出かけ、「完治しました!」といって帰ってくる。伯母にあたる斉明天皇には、南紀の景勝を絶賛して「ぜひお出かけください」と伝え、斉明天皇も大いに喜んで「行きたい」と希望したという。

身の危険を感じて狂気をよそおったのなら、もう少し続けるもんじゃなかろうかという気もする。

 

蘇我赤兄にはめられる

その翌年の658年、斉明天皇らは実際に牟婁温泉に赴いている。中大兄皇子と額田王も随行した。これが10月のことだが、同年5月には中大兄皇子と遠智娘(おちのいらつめ・蘇我倉山田石川麻呂の娘)の間に生まれた建皇子(たけるのみこ)が8歳で早生するという出来事があった。口がきけなかったというこの皇子を、斉明天皇はたいへんにかわいがっており、その死を悼み追慕する歌が『万葉集』に残されている。南紀行幸は、傷心をいやす気晴らしの旅という性格もあったようだ。

 

斉明天皇らが南紀に赴いている間、飛鳥で変事がはじまる。蘇我赤兄が有間皇子を訪問、斉明天皇の3つの失政、

・大きな倉を建てて民の財をたくわえた

・長い水路を掘って公費を浪費した

・船に石を載せて運び、その石を丘のように積み上げた

をあげつらい、「ともに兵を挙げて斉明天皇を倒そう」と誘った。有間皇子も同調し、「生まれて初めて兵を用いるときがきた」と考えたという。

その2日後にも蘇我赤兄邸で謀議。ところがこのとき、有間皇子の脇息が折れたのを不吉ととらえて挙兵を断念。この件はたがいに決して口外しないことを誓い合って、その日は別れた。

ところが、この時、蘇我赤兄は斉明天皇に「有間皇子、叛意あり」と通報しており、その夜、赤兄の手勢が有間皇子邸を囲み、皇子を逮捕、牟婁の温湯に護送してしまう。

その護送の途上で詠まれたのが、

 

磐代の浜松が枝を引き結び真幸くあらばまた還り見む

 

家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る

 

の2首である。旅の途中で詠まれたにもかかわらず、『万葉集』では「羈旅」の部ではなく「挽歌」の部に置かれており、編者の鎮魂の念が感じられる。

 

有間皇子は牟婁の湯にて中大兄皇子の尋問を受け、ふたたび飛鳥に送還される途中、藤白の坂で絞首刑に処された。享年18歳。

叛意あり

若すぎる、悲劇的な死。それゆえに、上記の『万葉集』編者をはじめ、後代にわたり多くの人に惜しまれ、追慕された。

そうした背景のもと、有間皇子の死は「中大兄皇子らの謀略によるもの」と考えられている。事実、そうだったのだろう。年齢から言って「まだ」危険性は低いが、将来の禍根とならないとも限らず、ならば芽のうちに摘んでおけと、中大兄皇子なら考えただろう。

しかし、一方の有間皇子も「その気になった」のは事実だ。蘇我赤兄にそそのかされたような形になっているが、もともと有間皇子の中にも、斉明天皇らに対する反発心があったからこそ、簡単に乗せられたのだ。

 

そして、あの中途半端な「陽狂(うはりくるひ)」も気になる。自分の身を守るためなら、周囲の自分への関心がもっと薄れるまで続けないと意味がないだろう。にもかかわらず牟婁の湯に行って「完治しました! 牟婁の湯、最高です!」と、あっさりカモフラージュを解いてしまう。

南紀白浜の景勝をたたえ、行ってみてはどうかと伯母を誘ったのは、実はその時点で有間皇子に挙兵の意志があり、警備が手薄になるよう飛鳥から引き離す意図があったのかもしれない……という勘ぐりもできる。『日本書紀』の「ひととなりさとくして」という箇所に使われている「黠」という字は clever に近い意味合いがあって、「ずるい、悪がしこい」という意味にもなる。「なにかたくらみがあって気狂いを演じた」とも取れるわけだ。だとすれば、狂気を演じたことも、南紀白浜へ行く口実であり、またそちらへ斉明天皇らを誘い出す目的も兼ねていたことになる。

実際、そういう説はあり、有間皇子は、母・小足媛の実家筋にあたる阿部氏の水軍を頼りにし、斉明天皇らを襲う計画を立てていたのだという。

 

敵は斉明天皇

有間皇子は乗せられただけか、それともけっこう「ヤル気」だったのか、そこは議論の余地があるところだろう。

ただ、いずれにせよはっきりしていることがあって、それは有間皇子が敵としてとらえていたのが斉明天皇その人だったということだ。中大兄皇子ではなくて、斉明天皇。

現代のわれわれの目から見れば、中大兄皇子の方がはるかにラスボス感が強い。何人も殺してきた謀略の中心に常にいた人物で、非常に危険な大物だ。それに比べれば、関西のおばちゃん・斉明天皇なんてかわいいものだ。

 

ところが斉明天皇重祚後、有間皇子が目の前に見ていた時代においては、斉明天皇の方がずっと「今そこにある悪」だったのだ。だからこそ蘇我赤兄にとっても、斉明天皇の方が有間皇子を焚きつける材料として使いやすかった。

この点からも、655~661年は、真の意味で「斉明天皇の時代」だったと言える。もちろん、中大兄皇子も常にそのそばにいて、彼らしく辣腕をふるっていたが、その彼とともに政権を切り盛りしていた斉明天皇は「傀儡」でも「仮面」でもなく、むしろ時として中大兄皇子が抑えきれず、御しきれないほどに大暴れしていたのである。

 

次回はそろそろ「皇極・斉明天皇」の最終章。

斉明天皇晩年の「外交」を中心に見ていく。

 

コメント