関西のおばちゃん・皇極・斉明天皇 8

時に中大兄皇子らの抑えも効かぬほど、やりたい放題やりまくった大王2期目の斉明天皇。その晩年にいたる治世の事績には、数々の建築・土木工事にくわえて、数々の外交・外征の実績がある。その最期も、韓半島に派兵する前線司令本部・筑紫朝倉宮においてであった。

皇極・斉明天皇編の最終章では、斉明天皇晩年の外交・外征活動を振り返る。

 

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古代の日中関係

彼女の時代までの日中関係史をざっくり押さえておこう。

 

冊封体制(さくほうたいせい)

6世紀頃まで、古代の日本と中国の王朝の関係は「冊封体制」を基軸とした。

倭の大王が中国皇帝の徳を慕って臣下の礼をとり(「王徳にまつろう」、「王化する」という)、朝貢。これに対し、中国の皇帝は返礼の品々と称号・官位をあたえ、倭の大王の統治権を認める。こうして統治権を追認することが「冊を封じる」と呼ばれ、ここから、アジアの広い範囲におよぶ中国王朝を頂点とした国際秩序を「冊封体制」という。古くは「漢委奴国王」(『後漢書』東夷伝)、邪馬台国の卑弥呼(『魏志』倭人伝)の記録があり、5世紀の応神・仁徳王朝期の「倭の五王(讃・珍・斉・興・武)」(『宋書』倭国伝)もこれにあたる。

化外慕礼(けげぼれい)

7世紀初頭、蘇我馬子政権の時代、厩戸皇子によって事情が変わってくる。あまりにも有名な「日出処の天子、日没する処の天子に書を致す。恙なきや」で始まる国書を隋の煬帝に送り、冊封体制から脱する。自分と肩を並べるかのような態度に煬帝は激怒したというが、韓半島の高句麗と対立し遠征軍まで送っていた隋は、高句麗の背後にある倭の戦略的位置を重視、「化外慕礼」という形での交流を認めたのである。

化外慕礼とは、「皇帝に対し臣下の礼をとらず朝貢もしないが(「化外(けがい)の民」=「王徳にまつろわぬ民」だが)、皇帝の徳を慕って折節にあいさつをする」という交流のあり方だ。こうしたあり方は、唐の時代を経てもしばらく続き、室町時代に足利義満が明の冊封体制に入るまで日中関係の基本になる。

余談になるが、古代の冊封体制と化外慕礼の話からは、ちょっと大事なポイントが見えてくる。それは「韓半島の勢力が日中どちらに対しても独立性が強い状況では日中関係は良好だが、韓半島の勢力が日中どちらかに従属的だと、日中関係はもめやすくなる」という地政学的傾向だ。この傾向はすでに古代にはじまり、近現代にいたるまでずっと続く。

 

斉明天皇の外交・外征

皇極-孝徳-斉明天皇の時代は、「つい最近、化外慕礼という形になりました」という時期にあたる。加えて韓半島は三国時代の末期。高句麗、新羅、百済が『三国志』さながらに唐と倭を巻き込みつつ同盟・手切れを繰り返し、相克していた。関係5カ国の間で活発に朝貢や使者、人質の往還がなされている。

 

唐・韓半島との交流

南淵請安、旻、高向玄理ら、厩戸皇子の時代に遣隋使に随行した外交のエキスパートたちは、斉明天皇重祚の直前までにすべてこの世を去っており、斉明朝の外交はほぼ天皇と中大兄皇子を中心に行われる。

上記のように、韓半島の諸国は互いに同盟と手切れを繰り返しながら争っており、それぞれに唐にも倭にも支援を求める外交活動を行っていた。倭との友好関係が深い百済だけでなく、高句麗や新羅からも使者、朝貢があり、また王子クラスの人物を人質として送ってきていたことが『日本書紀』などに記録されている。それぞれに必死だったのだ。

斉明天皇は、そうした使者や人質との謁見、饗応などに臨席したことだろう。

このほか、東南アジアの国と考えられる覩貨邏(とから)国の漂流者を饗応したことも記録されている。

 

蝦夷、粛慎との交流

対外活動だけでなく、大和王権周辺の民に対してもいろいろやっている。

斉明天皇65歳の658年、阿倍比羅夫を派遣して蝦夷(えぞ)を討たせる。すぐに降伏した蝦夷の首長に官職と称号をあたえ、旧領の支配権を安堵、北海道南部の蝦夷も饗応して勢力下に収めている。翌659年にも津軽から北海道にかけての蝦夷を平定し、饗応して禄を与えたとされる。さらに660年、石狩川と考えられる大河のほとりで、比羅夫は蝦夷からの救援要請に応えて粛慎(みしはせ)と戦い、樺太(サハリン)まで追ってこれを破ったという。この粛慎も2ヶ月後、飛鳥にて饗応を受ける。

このように、「討つ、平定する」とは言っても、攻めて滅ぼすわけではなく、降伏ののち臣従させ、官職と称号を与えてそれまでの領地支配権を認め、大王に対する朝貢を求める形。「倭国版冊封体制」なのである。阿倍比羅夫による前線での饗応だけでなく、飛鳥の地でも斉明天皇は何度も蝦夷の朝貢を受け、彼らを手厚くもてなしている。

こうしたことは単に大和王権の勢力拡大を意味するだけではなく、対大陸外交の一環でもあった。すなわち斉明天皇は、唐の皇帝と同じように、自分に対して臣従し朝貢する民がいるという事実をアピールしているのだ。「アタシのとこにも朝貢する人たちがいるの。ね? アタシたち、対等でしょ?」というメッセージだ。

事実、彼女は蝦夷の人びとを遣唐使に同行させ、皇帝・高宗に見せている。高宗も、彫りが深かったり二重まぶただったりする蝦夷の人びとに興味をそそられ、大いに「いいね!」をポチッたという。

百済救済を目指し、出兵を決意

韓半島情勢が急転する。新羅が唐と結び、660年7月、百済を滅ぼしてしまう。2ヶ月後、百済の生き残りが来日し、百済の王族、武将が依然として百済再興のために戦っていると伝えた。さらに翌月、その王族・武将が倭に唐の捕虜100人を献じて援軍を要請、また、孝徳天皇の時代から日本に人質として滞在していた百済の王子・扶余豊璋(ふよほうしょう)の帰国を願った。

 

斉明天皇はこれを聞き入れ、百済救済のための出兵と豊璋の帰国を命じる。12月、軍器を整えるために難波宮に行幸、661年の年明け早々、1月6日に西に向かって出航している。

同14日、伊予の熟田津・石湯行宮に宿泊。このあと、額田王があの「熟田津に船乗りせむと……」の歌を詠み、九州に向けて進発ということになる。

このあと、3月25日に那大津(なのおおつ・博多付近?)に到着し、近くの磐瀬行宮(いわせのかりみや)を経て、5月9日に筑紫朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)に移り、そして7月24日、斉明天皇は崩御する。享年68歳。

「御船還りて那大津に至る」の問題

ここにひとつ、多くの人の頭を悩ませてきた問題がある。661年1月中旬に熟田津を出て、那大津到着までに2ヶ月以上かかっており、その到着について『日本書紀』では「還」の文字が使われている点についてである。「どこに行って還ってきたの?」という話だ。『日本書紀』には、その経過の記載がいっさいない。

 

これについては、「本来の航路に戻った」とする説(岩波書店『日本古典文学大系』)、「熟田津停泊後、再び海路に就いた」とする説(小学館『新編日本古典文学全集』)、「壱岐、対馬を視察したあと、戻った」とする松本清張の説などがある。

「還」の字はあくまでも「どこかへ行って、還ってくる」という意味なので、岩波説も小学館説も字義にそぐわないところがある。小学館説に至っては、「2ヶ月も湯治してんじゃねーよ」というツッコミが関係各方面からありそうだ。松本清張説も、史料的裏付けがあるわけではない、推測である。

 

これから書くことも推測だが、「朝倉宮がホームベースだったから『還る』とした」ということでいいのではないかと思う。

理由その1。派遣軍編成は端緒に就いたばかりだった。

実際に白村江の戦いが戦われるのは663年の8月であり、それに至るまでに、661年5月進発の第1軍・約1万人、主力部隊となる662年3月進発の第2軍・約2万7,000人、663年進発の第3軍、約1万人が送られている。熟田津を出航後、斉明天皇一行は瀬戸内海沿岸の諸豪族と交渉し、戦力を糾合、船団を増強しながら那大津に至ったのではないか。そう考えればあっち寄りこっち寄りで2ヶ月以上かかるのも不自然ではない。

理由その2。斉明天皇が韓半島に渡ることは考えられない。

韓半島南部の沿岸に、斉明天皇が安全に指揮を執れる拠点などない。それに、ほかの仕事もあるのだから倭の領域から離れるわけにもいかない。さらに、対馬海峡は波おだやかな瀬戸内の内海とはちがい、外海だ。それを68歳の斉明天皇に渡れというのは、もはや老人虐待である。ホントにもうすぐ死ぬんだよ?……という話である。それゆえに……

理由その3。磐瀬行宮は「仮の宮」。ということは、朝倉宮が「本格的な宮」。

那大津に着いてから朝倉橘広庭宮に移るまでのおよそ1月半は、本格的な司令本部機能をそなえた王城の完成を待つ期間と考えれば不自然ではない。短いといえば短いが、前線基地としてのスペックだけをそなえたストイックな施設であれば、なんとか造れるだろう。少し前から建設が始まっていたかもしれないし、移れる段階まで出来たところで移ったという可能性もある。

韓半島まで渡る気がなかった斉明天皇らは、朝倉宮に腰を据えて、予定としては数年かけて事に当たるつもりだった。となればそこが「都」なのであって、当然のこととして「大王が居る場所、還るべき場所」ということになる。『日本書紀』編者らは、その予定を知っていて意識していたため、「還」の字を用いた。

……という考えなんだけど、だめ?

 

その後の韓半島と日本

斉明天皇没後のてんまつに触れて最後としたい。

663年、倭国軍は白村江で大敗。撤退を余儀なくされる。以後、中大兄皇子は唐の脅威におびえることになる。ために多くの水城を築き、防人(さきもり)を配置し、諸豪族と民衆に過酷な負担を強いることになってしまう。

ところが、実際には唐が倭国に攻め込むことはなかった。唐と新羅は、中大兄皇子が天智天皇として即位した668年に高句麗を滅ぼすが、その後、天智天皇死後の676年、新羅が唐に反乱し、旧高句麗領の南半分ほどを切り取って韓半島を統一。その後、新羅は「おわび外交」を軸に唐と付き合うが、小競り合いは絶えなかった。すると、例の地政学的傾向から、唐は倭を敵に回そうとは思わなくなるわけである。唐と新羅の緊張のおかげで、倭国の安全は保たれた。

 

白村江の敗戦は斉明天皇没後のことであり、彼女に責任はない。現地軍のずさんな作戦行動に敗因はあったようだ。斉明天皇自身は、派兵を決断し、戦意満々のまま筑紫の地に没した。

 

歴史ネタ

Posted by izumi