関西のおばちゃん・持統天皇 2

関西のおばちゃん・持統天皇 2

歴史ネタ

持統天皇が頭脳明晰で決断力もあり、強いリーダーシップを持つ女性であったことは疑いない。だが、それだけで天武天皇死後の政権運営や革新を成し遂げられたわけではない。天武天皇が壬申の乱で勝利し、近江方についた有力豪族が軒並み没落したことで確立された、天皇の絶対的権力という前提があったからこそである。

よって、壬申の乱を振り返っておく必要がある。

 

壬申の乱

壬申の乱は天智天皇の没後、その子・大友皇子と大海人皇子の間で戦われた古代史最大の内乱。大海人皇子が勝利して天武天皇となった。同時に鸕野讃良皇女の立后もなされている。西暦672年。

 

原因は?

開戦までのいきさつ

天智天皇は668年の即位時に、大海人皇子を東宮とした。次の大王ということである。が、天智天皇は次第にわが子・大友皇子に大王位を継がせたいと望むようになったとされる。

 

671年10月、病が深まり死期が近いことを自覚した天智天皇は、病床に大海人皇子を呼ぶ。このとき使者となった蘇我安麻呂(そがのやすまろ)は、実は大海人皇子と昵懇で、天智天皇とは気をつけて話をするよう忠告したという。

病床で天智天皇は大海人皇子に次の大王位を託そうとする。大海人皇子は安麻呂の忠告を思い出し、これを辞退。「皇后・倭姫王(やまとひめのおおきみ・古人大兄皇子の娘)が即位し、大友皇子が太政大臣として補弼すべき」と提案し、みずからは剃髪、出家して吉野に下向した。

 

同年12月3日、天智天皇崩御。5日、大友皇子即位(?)。

翌672年6月、大海人皇子、挙兵を決意し行動開始。

 

原因をめぐる諸説

乱の原因をめぐっては諸説あるが、どれか1つが正しいというよりも、たがいに矛盾していない限りは、それぞれが複合して乱を引き起こす原因となったと考えるのが妥当だろう。

 

① 自衛のため

天智天皇は崩じたが、近江朝廷にはあの蘇我赤兄がいる。有間皇子(ありまのみこ)を葬る工作の実行者。「謀反の罪を着せて殺す」いつものパターンで大海人皇子の粛清を考えかねない。

ならば「やられる前にやってやる!」ということ。

近江朝廷が故天智天皇の陵を造営するためと称し、美濃で人員を徴発し武装させはじめたことについて、大海人皇子の舎人の一人が「大海人皇子討伐の準備」を示唆する報告をしている。正史では、これを受けて立ち上がった、という流れになっている。

② 天智天皇治世に不満を持つ層の存在

天智天皇が中大兄皇子時代から進めてきた「大王への集権化」を志向する施策に対する不満。白村江の敗戦後、水城の建設や防人の配置などで多大の負担を強いられたことに対する不満。近江大津宮への遷都に対する不満。そうした不満を持つ層が近江朝廷にしたがうことを是とせず、大海人皇子を反抗の旗印としてあおいだ。

③ 大友皇子への反発

672年の時点で大友皇子は24歳。まだ経験不足と判断される年だ。加えて生母は地方豪族の出身。身分が低すぎであり、本来なら大友皇子は大王になれる立場ではない。このため、大友皇子の大王としての適格性・正統性を否定する人びとがいた、あるいは大海人皇子自身がそう考えたということ。

天智天皇が大友皇子に大王位を継承させようとしたのは、嫡流長子による帝位継承をルール化した唐にならった改革だったと見る向きもある。天智天皇がこの改革をあまりに強引に進めたということで、乱の原因になったのかもしれない。

 

このほか、「額田王をめぐる兄弟間の不仲」というのも江戸時代に唱えられた。

ちなみに、大海人皇子と額田王の間に生まれた十市皇女(とおちのひめみこ)が大友皇子の正妃。皇子が即位していれば立后される立場だった。壬申の乱後、父・天武天皇に保護されるが、678年に急病を得て逝去。25歳か30歳という若さだった。天武天皇は声をあげて泣いたという。

結果と意義

結果

「原因」で触れた近江朝廷に不満を持つ豪族は、やはり相当数存在したのだろう。大海人皇子方はほぼ連戦連勝で近江方をボコりまくる。そして、大友皇子が自害して決着。右大臣・中臣金(なかとみのかね)は死罪。左大臣・蘇我赤兄は流刑となり、蘇我氏は歴史からフェードアウトしていく。血筋の面では、持統天皇を含む多くの皇族に残されていくけれども。

 

意義

「持統天皇 1」で書いたように、「大王の権力・権威がいちじるしく高まった」というのが壬申の乱の意義。

 

戦争に勝利して王権をいちじるしく強化した大王としては、5世紀の雄略天皇がいる。兄弟2人と従兄弟3人を殺して即位し、即位後も処刑が大好きだったことから「大悪天皇」などと書かれてしまうが、その一方で当時の巨大豪族・葛城氏を討ち、没落させて大王の王権を強化したことは高く評価されている。

しかし壬申の乱はというと、これはもう「古代の関ヶ原」と言っていいくらい大規模なもので、「易姓革命論」的な意味でも、ドラスティックな社会構造変革という意味でも「革命的」だった。そのインパクトは雄略天皇の葛城氏討伐によるそれの比ではない。天武天皇の王権は絶対王政のそれと同じくらいに高められた。

そのあらわれが「皇親政治」だ。天武天皇がみずから政務を主導するし、左右の大臣など要職にも皇子を任じ、ほかの豪族には政治に口を出させない体制になった。「公地公民」に近い状況が生まれたことになる。

この時代、天武天皇や持統天皇をたたえて「大君は神にしませば……」で始まる歌が詠まれるようになるのも、やはり王権の絶対的増強のあらわれだ。

そしてこの頃から、「大王(おおきみ)」に代わり「天皇」という呼称が用いられるようになり、皇子は「親王」や「王」、皇女は「内親王」と呼ばれるようになる。対外的国号が「日本」になるのもこの頃だ。

 

天武天皇は壬申の乱の戦後処理、論功行賞も兼ねて朝廷への中央集権化を進め、鸕野讃良皇女も皇后としてこれをサポートし、天武天皇の死後もその権力基盤を引き継ぐ。

彼女がその能力をいかんなく発揮できたのは、その権力基盤があったからこそである。

 

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