関西のおばちゃん・持統天皇 3

歴史ネタ

天武天皇が壬申の乱に勝ったおかげで持統天皇は権力を持てたという話だったが、実は「壬申の乱そのものが、鸕野讃良皇女が首謀者として仕組んだものだった」という説もある。乱の当時、鸕野讃良皇女は27歳。もう立派な大人になっていたし、後年発揮される彼女の能力を思えば、ありえないことではない。ただ、「おばちゃん」といえるほどの歳ではないのが残念だ。

その可能性を探ってみよう。

 

倉本一宏氏の説

2007年に上梓された鸕野讃良皇女首謀者説。

要点は、「草壁皇子を確実に大王位につけることを第一目的とし、大津皇子らを危険にさらすために、鸕野讃良皇女が大海人皇子を説得して戦乱を引き起こした」とする。

 

天智天皇の大王位継承プラン

倉本氏は、まず大友皇子の大王位継承資格を否定。たしかに、前述の通り、若すぎるし、生母が地方豪族出身なので、当時の基準ではかなりの無理筋。

そのうえで、大海人皇子が天智天皇の正統な後継者であることは、当時の衆目が一致することであり、天智天皇もそれを望んでいた、とする。

天智天皇は、大海人皇子を中継ぎとして、次に葛野王(かどののおう・大友皇子と十市皇女の子)か、大津皇子、草壁皇子へと継がせていく……という大王位継承プランを思い描いていた。

そのプランは、大海人皇子にとっても不都合はなく、大王位を継ぐ資格のない大友皇子を、わざわざ武力をもちいて倒す必要性は薄かった。

 

だが鸕野讃良皇女にとっては……

しかし、天智天皇と大海人皇子が思い描いていたプランに不満をいだく者があり、それが鸕野讃良皇女にほかならなかった、とこの説は説く。

要するに彼女は、確実に草壁皇子に大王位を継がせたかった。そのために、大友皇子を倒して葛野王を排除する必要があった。それに、兵乱を起こせば大津京にいる大津皇子をも危険にさらすことができる。

……ということで、鸕野讃良皇女は大海人皇子を説得して乱を起こさせた、という説。

 

倉本説について考える

倉本氏の考えるとおりだとすると、天智天皇が臨終の床に大海人皇子を呼び大王位を託そうとした際、大海人皇子が引き受けてしまっては、鸕野讃良皇女としては困るはず。ということは、蘇我安麻呂が呼びに来たときまでには、「父があなたに大王位を継ぐように言っても、断ってね」と頼まないといけない。

どんなことを言ったのだろう。そこは疑問だ。

 

倉本説に現実味を添える要素としては、大海人皇子の吉野への下向には、王族の妃としては鸕野讃良皇女だけが、草壁皇子(当時10歳、または4歳)と忍壁皇子(大海人皇子の第4皇子、生年不詳)を連れて同行しているという事実がある。姉の大田皇女(おおたのひめみこ)はこの時すでに亡く(667年病没)、ほかの妃、皇子、皇女の同行は記録されていない。

ただどうも、鸕野讃良皇女の謀略だったにしては、彼女の思惑通りに進んでいないところが多い。

大海人皇子の皇子で唯一ちゃんと戦えそうな人だった高市皇子(18歳)は大津皇子とともに大津京におり、大海人皇子は当然、これを呼び出し、合流しようとする。ところがこのとき、大津皇子(9歳)も同時に大津京を脱出しており、高市皇子と別ルートを経て大海人皇子と合流している。

鸕野讃良皇女、内心、「ちっ」とか思っちゃった感じだろうか。

 

さらに、当時わずか3歳だった葛野王。母・十市皇女と一緒に、彼もまた脱出し、乱の後も長く天武朝に仕える。持統天皇の代に入っても仕えており、「運命」というか、「因縁」というか、実に何ともいわく言いがたい役割を果たすことになる。

 

つまり、鸕野讃良皇女は、除きたかった人間2人を2人とも、やり損ねたわけだ。彼女ほどの才覚の持ち主が、メインターゲットを2人ともし損じるとは、少々考えにくい。もっと確実な方法を考えないと。

 

というか、それを言えば戦争を起こすという手段自体、勝てるかどうかは確実ではない。大海人皇子は剃髪して吉野に下向するにあたり、叛意がないことを誓い、所有する武器、兵器をすべて近江朝廷に収めている。挙兵を決意して東国に脱出する際も、鸕野讃良皇女、草壁皇子、忍壁皇子とわずかな供を連れただけだった。まったくゼロからの挙兵であり、確実に勝てる見込みがあったわけはないだろう。

 

とはいえ、『日本書紀』には鸕野讃良皇女が大海人皇子とともに「はかりごとをした」とあり、少なくとも挙兵を決意して吉野を脱出する段階では、2人が戦略方針を相談したことはまちがいない。高市皇子が合流するまでは、わずかな家来以外、大人は2人しかいなかったのだ。

どこまで鸕野讃良皇女が主導的だったかは疑問で、彼女が首謀者であったことを立証するのは難しそう。メインターゲットの大津皇子と葛野王を2人ともし損じている点については、「彼女らしくない」とは言えるが、それが目的だったとする点だけは倉本説の誤りで、単純に夫に天下を取らせたかったのかもしれない。

いずれにせよ、彼女が大海人皇子を強く支持し、おおいに励まし、積極的に戦略方針立案に関わったであろうことは想像に難くない。そういう意味では「首謀者」と認定してもよさそうに思う。

 

次の記事では、引き続きもう少し、壬申の乱に関連するポイントを整理する。大海人皇子はなぜ大王位継承を引き受けなかったのか。

 

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