関西のおばちゃん・持統天皇 4

歴史ネタ

もう少し壬申の乱前後の情勢を整理する。

671年の10月、天智天皇は病床に大海人皇子を呼び出し、次代の大王位を託そうとするが大海人皇子は固辞。同年12月3日、天智天皇崩御。同5日、大友皇子、弘文天皇として即位(?)。

672年6月下旬、大海人皇子、鸕野讃良皇女、草壁皇子、忍壁皇子は吉野宮を脱出、わずかな供を連れ、東に。

これが壬申の乱の始まりだが、やはり671年10月の出来事とは切り離せない。大海人皇子はなぜ大王位継承を断ったのだろうか。

 

大友皇子は即位していたか

天智天皇の第1皇子、大友皇子は、明治3年に「弘文天皇」と諡(おくりな)され、天皇に列せられている。同時に諡号された天皇がほかに2人いるが、その2人が即位していたことは間違いない。大友皇子だけは、江戸時代くらいから即位していたか、していないか、論争がある。

天智朝末期時点での大海人皇子の立場に関係するポイントなので、簡単に見ておく。

 

結論から言うと、即位していないと見る方が問題が少ない。

① 前述のように、大友皇子は24歳と若く、生母が地方豪族出身なので本来なら大王位など思いも寄らぬ立場。

② 天智天皇死後、たった2日で即位というのは不自然。最低でも数ヶ月は「殯(もがり)」の期間があるはず。

ただし、大津宮で大友皇子が近江朝廷をリードしたことは間違いない。大海人皇子の提案通り、倭姫王の即位、大友皇子の称制という形だったかもしれないし、上記①の点からして「称制」も難しかったとすれば、引き続き太政大臣として政権運営に当たったのだろう。

他方、前述したように、天智天皇は上記①を百も承知のうえで、唐の嫡流長子継承を軸とするルールを導入するために、大友皇子に大王位を継がせようとした可能性もある。

だが、どうせ強引にやるのなら、671年の時点で大友皇子を立太子してしまえばよかったのではないか。それができないから太政大臣という官職を新設し、これに据えたということだろうか。それにしても、太政大臣は太政官トップの政務官であり、「皇太子」とちがってただちに次の大王位を約束されるポストではない。

ということは、倉本説のいうように、天智天皇は大友皇子の即位は考えておらず、中継ぎとして大海人皇子の即位を考えていた可能性もある。その次が葛野王、と。

ただ、そうだとしても、671年の太政大臣・大友皇子、左大臣・蘇我赤兄、右大臣・中臣金(なかとみのかね)という人事を見ると「大海人皇子を皇太子扱いのまま政権中枢から敬して遠ざける」性格が強い。

 

なぜ大海人皇子は大王位継承を断ったか

大王位即位を勧められたが辞退した例は古来いくつかあるが、大海人皇子の直近では古人大兄皇子のケースがある。631年生誕説にしたがえば14歳の時のことなので、まさに「記憶に新しい」話だったはずだ。

古人大兄皇子の行動も、まるでデジャブでも見ているかのように同じだ。即位を勧められたが辞退し、出家すると言って佩刀を手放し、下向した先も同じ吉野だった。

2人が置かれた状況も似ている。2人ともその時点で最有力の大王候補だった点、そして、その後の政権が、その首脳部の顔ぶれからして自分にとって「away」なものだった点も共通している。この後者の点は、即位の打診を断る理由になりそうだ。自分に対し面従腹背の政権内実力者にかつがれて玉座に座っても、それは針のむしろだろうし、実権というものをにぎれる見込がまったくない。傀儡大王として飼い殺しにされるようなものだからだ。

この点は、古人大兄皇子と大海人皇子の両者に共通する理由だろう。

だが2人が置かれた状況にちがう点もある。

古人大兄皇子の場合は、蘇我氏を中心とした政権から中大兄皇子らを中心とした政権となる「断絶と変化」の状況。

これに対し、大海人皇子が太政大臣・大友皇子の上で大王になったとしたら、それは天智天皇治世の「継承と延長」の状況だ。つまり「不連続」と「連続」というちがいがある。

 

大海人皇子は、この「連続」を嫌ったのではないだろうか。つまり、「天智天皇の政治を引き継ぐことを拒否したかった」のではないだろうか。

端的に言って、天智天皇は嫌われていたはずだ。「持統天皇 2」で書いたように、大王への集権化をはかる施策、白村江敗戦後の水城や防人の設置をめぐる諸豪族と民衆への負担、近江大津宮への遷都など、およそ人に好かれるようなことは何一つしていないと言っても過言でないほどだ。それ以前からも謀略で何人もの人間をおとしいれ、殺してきている。

その天智天皇が晩年、後顧の憂いなきよう万全の体制としてセッティングしたのが671年の人事だった。その御輿に乗ることは、世間に嫌われる政権の「顔」になることにほかならない。

何の実権もにぎれないうえに、諸豪族からも民衆からも嫌われる。

それはとても耐えられたものではないだろう。これが、大海人皇子が即位を断った最大の理由だったと考える。

 

そして、鸕野讃良皇女は、草壁皇子と忍壁皇子を連れて大海人皇子に同行し、吉野に至っている。

病床の天智天皇との面会が671年10月15日で、大海人皇子はその日のうちに剃髪し、翌日には手持ちの武器をすべて朝廷に奉納、17日には吉野へ向けて出立している。

非常にすばやい動き。夜逃げみたいだ。

ここまですばやいと、事前に計画していたのではないかとも思えてくる。というよりも、していなかったと考える方がむずかしい。

計画していたとしたら、鸕野讃良皇女も加わっていたことだろう。でなければ、わずか2日で出立の準備などできるわけがない。

671年10月15日までの時点ですでに、大海人皇子と鸕野讃良皇女は近江朝廷からの離反を決意し、戦略構想を模索していたのではないか。だとすれば、鸕野讃良皇女も立派に「首謀者」だろう。

 

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