関西のおばちゃん・持統天皇 5

歴史ネタ

大海人皇子と鸕野讃良皇女は草壁皇子と忍壁皇子を連れて迅速に吉野に下向したが、ほかの皇子らは大津京に残っている。そのへんも含めて、近江朝廷の状況を一瞥しよう。

 

大津京の人びと

大海人皇子の長子・高市皇子(たけちのみこ)や大津皇子は大津京に残った。大海人皇子と鸕野讃良皇女があまりに早く行動したため、ほかの妃や皇子、皇女らはとうてい準備できず、ついて行きたくても行けなかったのかもしれない。ただ、その後あとを追って吉野に向かった形跡もないから、これも計画的に残したのかもしれない。人質のような意味合いで、叛意がない証しとして残した、とか。

あるいは、情報源としてあえて残したのかもしれない。大友皇子の妃・十市皇女(とおちのひめみこ)に至ってはスパイ説まである(『扶桑略記』、『宇治拾遺物語』など)。あらためて確認するが、十市皇女は父が大海人皇子、母が額田王という皇女である。壬申の乱は、彼女にとって夫と父親との戦いだったが、生き残って大友皇子の忘れ形見・葛野王とともに大海人皇子の元に身を寄せていることから見て、大海人皇子寄りの立場をとっていた可能性は高い。

近江朝廷の中枢近くにありながら、大海人皇子寄りの態度をとった可能性のある人物がもうひとりいる。天智天皇の皇后であり、彼の死後、皇太后となった倭姫王(やまとひめのおおきみ)だ。

倭姫王の父親は古人大兄皇子だ。つまり夫・天智天皇は父の仇でもある。乙巳の変の3ヶ月後、謀反を誣告された古人大兄皇子は一族もろとも殺されたが、倭姫王だけが助命された。10歳ちょっとだったと推定されるので、物心はついていただろう。それがのちに中大兄皇子の妃となり、20年以上連れ添ったことになるが、うらみの念は消えていなかったかもしれない。

天智天皇崩御の前後に彼女が詠んだ歌4首が『万葉集』に残っているが、臨終間際の2首は「アンタの命はもう天に昇ってるよ」、ないしは「アンタもう十分に生きただろ」、そして「アンタの魂はもう墓場に行ってるよ、会いたくもないけど」と読めなくもない。臨終直後の歌も、「ほかの人びとは忘れたとしても、影が見えて私には忘れられない」という趣旨。臨終直後なのに「ほかの人びとが天智天皇を忘れる」というのは不自然に思われる。「26年前にアンタがしたことを……」という意味ではないだろうか。

そして、倭姫王と天智天皇の間に子はない。

彼女から見て、大友皇子は卑母の腹から生まれた継子だ。特に応援しなければならない理由もない。

ということで、倭姫王も大海人皇子寄りの立場をとっていた可能性がある。

 

このほかにも、672年時点で14~15歳の少年だった川島皇子(かわしまのみこ)と志貴皇子(しきのみこ)も乱後、大海人皇子の元に身を寄せている。

大友、川島、志貴の天智3皇子の生母はバラバラで、いずれも地方豪族出身。ゆえに地位はほぼ横並び。川島皇子と志貴皇子に、「なぜ大友皇子ばかりが重んじられるのか」という思いがあったとすれば、近江朝廷の支援に消極的になっていたかもしれない。

 

要するに、近江朝廷側は結束がけっこうガタガタだった、と思われるフシがある。太政大臣、左大臣、右大臣の足並みもそろっていたとは言いがたい。負けて当然……だったのだろう。

 

2.鸕野讃良皇女の立后

さて、壬申の乱終結後、大海人皇子はしばらく美濃で戦後処理にあたったのち、飛鳥岡本宮と大極殿を造営(のちに合わせて「飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや)」と称する)、673年に即位して天武天皇となる。同時に鸕野讃良皇女は立后され、皇后となった。

 

前述したように、旧来の有力豪族が没落し、勝った側ももともと小粒な豪族たちの力を糾合したところがあったので、大王の力を掣肘するような大勢力がいなくなり、空前の大王集権体制が築かれた。

天武天皇は大臣をひとりも置かず、王族に要職を独占させ補弼させつつ、みずから政務に当たった。「皇親政治」である。鸕野讃良皇女は、すでに壬申の乱以前から助言を求められ、積極的に知恵も出す立場にあっただろうが、天武朝においてもその立場は変わっていない。

679年、天武天皇と鸕野讃良皇女、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子の6皇子の間で「吉野の盟約」が交わされる。これは大津皇子謀反事件に関係するため、次回、もう一度触れる。

同年、鸕野讃良皇女は病を得る。天武天皇は薬師寺建立を発願した。

681年、天武天皇と鸕野讃良皇女は大極殿で「律令」の制定開始と、当時19歳の草壁皇子の立太子を宣言した。

このように、政局の要所に臨み鸕野讃良皇女は常に天武天皇の傍らにあり、共同で政務を執っている。

685年頃から天武天皇は病気がちとなり、686年7月には「天下のことは大小を問わずことごとく皇后および皇太子(草壁皇子)に報告せよ」と命じた。天武天皇は隠居し、鸕野讃良皇女と草壁皇子の共同体制による朝政ということになるが、実質的には鸕野讃良皇女政権になっていたことは言うまでもないだろう。草壁皇子など、そこでは「研修生」のようなものだ。

そして686年9月、天武天皇は崩ずる。

その死は、鸕野讃良皇女にとってはあまりに早すぎた。彼女自身は41歳と、いい感じにおばちゃんになっていたのだが、なんとしても皇位につけたい草壁皇子は弱冠24歳にすぎない(ただし、草壁皇子の年齢はのちほど問題にする)。

鸕野讃良皇女にとって、本当の戦いはここからだった。

 

 

 

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