関西のおばちゃん・持統天皇 6

歴史ネタ

わが子・草壁皇子を皇位につけること。それが鸕野讃良皇女の悲願だった。悲願というよりも執念、執念というよりも妄執と言った方があっているかもしれない。そのくらい強く、彼女は草壁皇子の践祚を願っていた。その実現のため、彼女は豪腕を振るうことになる。

 

吉野の盟約

679年、天武天皇、鸕野讃良皇女、草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子が、壬申の乱ゆかりの地である吉野におもむき、「皇子たちは互いに争わず、協力しあう」と誓う盟約を交わした。「吉野の盟約」という。

このとき最初に誓いの言葉を述べたのが草壁皇子とされ、以下、上記6皇子の順番で宣誓し、天武天皇と鸕野讃良皇女が6皇子を抱擁する、という形で行われた。

この件のポイントは2つある。

① 6皇子を代表して最初に宣誓した草壁皇子が優位に立つ。

② 「誓いを破った者は身を滅ぼし、子孫を絶やす」という文言があり、のちの大津皇子の死を暗示している。

①については、この時点で草壁皇子を天武天皇の後継者と確定するまでの意味は持たないが、少なくとも草壁皇子が「6皇子同盟」の盟主の座にすわるといった程度の意味はある。

②については次項に述べる。

 

それにしても、壬申の乱直前に大友皇子と蘇我赤兄、中臣金らも似たようなことをしている。こういうわざとらしいパフォーマンスは、逆に内訌のタネが存在していることを暗示する。死亡フラッグと言ってもいい。このあと大津皇子が死に、草壁皇子も帝位に上ることなく死に、その子孫も結局は絶える。そういった結果を考えれば、誓いの言葉は同時に「呪詛」ですらあった。

 

大津皇子の処断

大津皇子とは

古代の人物としては例外的と言っていいほど、大津皇子については史料が豊富だ。彼の作文による漢詩を収録する『懐風藻』には、「体格や容姿が逞しく、器が大きい。幼い頃から学問を好み、書物をよく読み、その知識は深く、見事な文章を書いた。成人してからは、武芸を好み、巧みに剣をあつかった。その人柄は、自由気ままで、規則にこだわらず、皇子でありながら謙虚な態度をとり、人士を厚く遇した。このため、大津皇子の人柄を慕う、多くの人々の信望を集めた」とある。

『日本書紀』でも「容姿にすぐれ、言葉もかっこよくて朗らか。天智天皇に愛された。長じてからも弁舌にすぐれ、学才があり、文筆を愛した。詩賦の興りは大津皇子からのことだ」と絶賛されている。しかもこの言葉は、大津皇子が謀反の罪で自害を強要され、妃の山辺皇女(やまべのひめみこ)が後を追って自殺し、これを見た者たちが皆泣いたという内容の直後に書かれている。まるで「謀反人」の死を悼むかのようだ。

『日本書紀』が書かれたのは天武・持統朝の政権下であり、当然その影響を強く受ける。草壁皇子の皇位継承を正当化するのがこの書の最大の任務と言える。

にもかかわらず、『日本書紀』は大津皇子を絶賛する一方で、草壁皇子をほめる言葉はいっさい書いていない。逆にかわいそうになるくらいだ。

 

大津皇子と草壁皇子・長幼の問題

大津皇子は663年、筑紫那大津で産まれたとされる。母は大田皇女(おおたのひめみこ)。中大兄皇子の娘で、鸕野讃良皇女、大江皇女、新田部皇女とともに、額田王との「4対1交換トレード」で大海人皇子に嫁した。鸕野讃良皇女の同母姉である。

草壁皇子は662年、やはり那大津で産まれたとされる。

 

ところが、「大津皇子の方が草壁皇子よりも先に生まれていた」とする説が根強い。黒岩重吾は「大津皇子の方が先に生まれていたから『大津』と名付けられたのだ」という。大津皇子年長説の最古のものは『懐風藻』で、困ったことに「大津皇子は天武天皇の長子だ」とのっけから書いてくる。長子は明らかに高市皇子なのだが。『懐風藻』は『日本書紀』より後に成立しており、いわば正史を読んで知ったうえで、あえてさからう形で「大津皇子は長男」と言い切っているのだ。

さらにその『日本書紀』の方も困ったことに、「草壁皇子は天智天皇元年に大津宮で生まれた」と書いている。「那大津」ではなく「大津宮」となれば、それは近江大津京でしかありえない。が、中大兄皇子が大津京に遷都したのは667年で、翌668年に即位したのでこれが「天智天皇元年」。すると、草壁皇子は668年生まれで、大津皇子よりも5歳年下ということになる。

草壁皇子の生年を662年とするには、「天智天皇元年」を斉明天皇没後、中大兄皇子が「称制を開始した年」と考えるしかない。ところが、もちろんこの時には「大津宮」はないのである。

 

一方、『日本書紀』は別の所で、天智天皇の崩御を「天智天皇4年12月」としている。つまり「称制開始の年」ではなく、「正式に即位した年」を元年としているのだ。『日本書紀』がこの考えに立つのであれば、草壁皇子の生年はやはり668年とならざるをえない。

 

『懐風藻』に再び戻る。高市皇子のことだ。高市皇子は654年生まれ。長男なのだが、前述「吉野の盟約」での序列は草壁皇子、大津皇子に次ぐ3番目だ。これはなぜかというと、生母が地方豪族出身だからだ。大王位継承の資格はない。ゆえに、最年長で、壬申の乱で大活躍したけれど、3番目。(ただ、もちろん軽んじられているわけでもなくて、持統天皇治世下で太政大臣に任じられている。)

さて『懐風藻』は、大津皇子の記載の冒頭で「大津皇子は天武天皇の長子」と断定してくる。筆者は『日本書紀』が草壁皇子を兄と扱っていることは百も承知だったはずだ。にもかかわらず、あえて大津皇子が長子だと書き、あえて高市皇子を省いているとすれば、その意味はひとつしかありえない。筆者は、「大王位継承優先順位としては大津皇子が一番だった」と主張しているのだ。

 

壬申の乱の時点で、大津皇子は9歳、草壁皇子は4歳だったと見るのが妥当だろう。『日本書紀』は、草壁皇子の皇位継承を正当化するため、草壁皇子を年長としたのだ。

 

大津皇子の死

すると679年、吉野盟約の時点では大津皇子は16歳、草壁皇子は11歳。

ならば皇子の序列が入れ替わって、大津皇子→草壁皇子となってもよさそうなものだが……なっていない。

たとえ大津皇子の方が年上で、有能で人望があったとしても、草壁皇子の上には立てなかっただろう。なぜなら、

① 鸕野讃良皇女は強い、強くてコワい

② 強くてコワい鸕野讃良皇女は草壁皇子の即位を望んでいる

③ 667年に母・大田皇女は没しており、強力な後ろ盾がない

ということで、大津皇子にとって頼れる存在は父・天武天皇くらいしかいなかったからだ。

そのため、皇后・鸕野讃良皇女の強力なプッシュにより、草壁皇子は681年に立太子される。

 

ところが、683年、父・天武天皇は有能な大津皇子を朝廷の政治に参与させ始める(「始聴朝政」・大津皇子20歳)。「始聴朝政」という用語は、のちに首親王(聖武天皇)が皇太子として政務につきはじめたことについても用いられた言葉なので、大津皇子の「始聴朝政」は草壁皇子と肩を並べる地位に立ったことを意味すると考えられる。

天武天皇の期待を一身に受け、バリバリ仕事を覚えていく大津皇子を見て、鸕野讃良皇女の心はいかばかりのものだっただろうか。

脅威。

それ以外の何物でもなかっただろう。

もはや殺すしかない。

 

それは、大津皇子にとって唯一頼れる存在である天武天皇の死後、ただちに実行された。

686年9月24日、天武天皇は崩御。同年10月2日、大津皇子は、親友だった川島皇子の密告により叛意ありとして追捕され、翌3日、磐余(いわれ)の地、訳語田(おさだ)の自邸で自害。享年23歳。

2.4.謀略

大津皇子の死が、鸕野讃良皇女の積極的な意志と行動によってなされたことを疑う人はほとんどいない。おそらく、天智天皇の皇子であるという微妙な立場につけ込んで、川島皇子を取り込み、密告させる工作をしたのだろう。

 

大津皇子自身に謀反の意志があったかどうかは議論が分かれる。しかし、大津皇子ほど知性が高くなくとも、685年からすでに事実上の鸕野讃良皇女政権になっている体制をひっくり返すのがどれほど大変か、容易に想像がつくだろう。そんな無謀なことは考えないはずだ。

歳もまだ若すぎる。

 

真相は、せいぜいちょっとした不満を口に出してしまい、それを川島皇子、あるいは鸕野讃良皇女が針小棒大に拡大解釈して「謀反の意」にでっち上げた……といったところだったのだろう。

 

 

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