関西のおばちゃん・持統天皇 7

歴史ネタ

草壁皇子にとって脅威となりうる大津皇子は葬った。ところが、まだ鸕野讃良皇女の戦いは終わらない。草壁皇子は18歳。『日本書紀』の扱いにしたがっても24歳。いずれにせよ、当時の基準ではまったく実務経験が足りていないと見なされる年齢だ。

鸕野讃良皇女としては、「時間かせぎ」が必要になる。

 

草壁皇子プロモーション活動

上記のごとく年齢の問題で、天武天皇没後、皇太子だからと言ってただちに即位できるものではなかった。そこで鸕野讃良皇女は「称制」の形で、即位せずに政権を引き継ぐ。

 

そして時間かせぎに着手。天武天皇の殯(もがり・葬礼)に、なんと2年3ヶ月もの年月を費やす。

その間、天武天皇の霊前に皇族・臣下を大挙列席させる葬礼の儀が何度も行われるが、その際、皇太子・草壁皇子が皇族・官人を率いる形がとられた。これは、「皇太子・草壁皇子こそが皇位継承者なのだ」ということを万人にアピールするパフォーマンスだった。

 

ところが、689年4月、草壁皇子が病没してしまう。

吉野の盟約が呪詛となって、大津皇子を謀殺した者たちの側に跳ね返ってきたかのような話だ。鸕野讃良皇女は、「私が殺したのだから、殺すなら息子ではなく私を殺せ」とでも思っただろうか。草壁皇子に対する偏愛を思えば、そんなような思いを抱いたであろうことは想像に難くない。

だが実際に死んだのは草壁皇子であって、鸕野讃良皇女ではない。

彼女にはまだやるべきことがあった。

 

即位・持統天皇

草壁皇子の死後、その血統を継ぐ子らによる皇位継承が、彼女の妄執となる。

草壁皇子には、阿閇皇女(あへのひめみこ・阿部皇女とも)との間に、男子・軽皇子(かるのみこ)がいた。しかし軽皇子は当時7歳。皇位はおろか、皇太子にすら立てるにはむずかしい年齢だった。

鸕野讃良皇女はまたしても時間かせぎを余儀なくされる。

時間かせぎのため、690年、即位。持統天皇となった。太政大臣に高市皇子、右大臣に多治比島(たじひのしま)を任命。人臣を大臣に任じ、天武天皇時代の皇親政治が一部修正された。

 

持統天皇の治世

持統天皇の治世は、基本的には天武天皇のそれを継承するものだった。主要な業績としては、飛鳥浄御原令の制定と施行、そして藤原京の造営がある。

飛鳥浄御原令は現存しておらず、詳細は不明だが、官僚制度と行政システムを規定した体系的法典だったと考えられている。草壁皇子の死の直後、689年6月に公示された。

藤原京は、日本史上初の条坊制による唐風都城。その規模は平城京はもちろん平安京をもしのぎ、都城としては日本史上最大だったことがわかっている。『日本書紀』によると690年に着工、694年に竣工し、以後710年まで首都となった。

持統天皇は、天武天皇の権威を移し借りるようなパフォーマンスを数々行っている。

ひとつには、柿本人麻呂に天皇を讃える歌を多数作らせた。「大君は神にしませば」で始まる複数の歌がこの時代に作られている。

もうひとつには、彼女は頻繁に吉野に足を運んでいる。壬申の乱ゆかりの地を訪れることで、天武天皇の権威を人びとに意識させ、自分の権威を高めることに利用したのだろう。

 

皇位継承ルールの変更

草壁皇子の血を引く子らによる皇位継承へ向けた彼女の戦いとしては、このポイントが重要。

結論から言えば、持統天皇はそれまで慣例とされてきた皇位継承のあり方に革命を起こす。

 

・太政大臣・高市皇子

「太政大臣」という官職の性格については、「単に太政官の最上位官で、皇位継承資格はないもの」ととらえるか、「太政官の最上位官であるのみならず、皇太子に準じる地位」ととらえるか、難しいところがある。

太政大臣は天智天皇が初めて設置し、大友皇子を任じた官職だが、どうしても大友皇子に王位を継がせたかったために作ったものと考えれば後者になる。

が、大友皇子と高市皇子は、生母が地方豪族出身のため大王位継承の資格が本来はないという点で共通しており、そういう者でも何とか就任できる大王に近いポストという位置づけだとすれば前者になる。

高市皇子は、年齢以外に文句のつけようがない皇位継承候補者(軽皇子)が存在する状況で太政大臣に任じられているので、実態は前者に近いのではなかろうか。

 

・葛野王(かどののおう)の強弁

696年、高市皇子が病没すると、持統天皇の後をどうするか議論が始まった。というよりも、持統天皇が皇子たちと群臣に意見を求めた形だった。これが高市皇子没後というタイミングだったことには意味がある。高市皇子は天武天皇の長子であり、壬申の乱における功労者でもあり、草壁皇子と大津皇子亡き後、皇族としての地位は持統天皇に次ぐ第2位にあった。彼自身の皇位継承はありえなかったが、伝統・慣習にしたがって弟である皇子たちによる皇位継承を軸に考えていただろう人物。その重しが取れたタイミングでの皇位継承会議だった。

この議論は衆議紛糾するが、持統天皇の仕込みによる「やらせ」くさい展開で大団円を迎える。葛野王が、「日本では神代から親子間で皇位継承が行われており、兄弟間の継承は争いの元になる」、「天意を推し量れる者などいない以上、議論をしても無駄だ」、「血筋や長幼から考えれば、皇太子は自然に定まる」とし、亡き草壁皇子、そしてその子である軽皇子による皇位継承を主張したのである。

「兄弟間の継承は争いの元」は事実だが、「神代から親子間で皇位継承」というのはもちろん事実に反する。そこで天武天皇の皇子のひとりである弓削皇子(ゆげのみこ)が反論を試みたが、葛野王はこれを一喝して黙らせたという。

かくして、わずか14歳だった軽皇子の立太子に衆議は定まった。

葛野王が嫡流直系による皇位継承を主張したというのが、実に因縁深い。というのも彼は大友皇子と十市皇女の間に生まれた皇子だからだ。大友皇子といえば、嫡流直系による皇位継承を目指して壬申の乱を招き、消えた人物。その子である葛野王が嫡流継承を主張するとは、まさに皮肉としか言いようがない。

葛野王自身、天智天皇の孫であり、天武天皇の孫でもあり、母が皇女だったので、皇族の中での地位は本来なら高い。壬申の乱さえなければ大王になれた可能性もあった。しかし現実は壬申の乱で父が敗れ、母・十市皇女もすでに世を去っており、後ろ盾が何もない、弱い立場だったのだろう。持統天皇に利用されたと見るのが妥当なところだ。

つまり、「持統天皇の『次』について意見を求める」という議論そのものが、またしてもパフォーマンスなのだ。

「またしても」というのは、吉野の盟約もそうであり、天武天皇崩御後、草壁皇子に2年以上も殯を主導させたのもそうであり、みずから何度も何度も吉野に行幸したのもそうだったからだ。ついでに言えば大津皇子の刑死も同じで、大津皇子と共謀したとされる30人に対し、鸕野讃良皇女は「だまされていただけ」として全員助命している。

鸕野讃良皇女=持統天皇の豪腕は、常にパフォーマンスとともにあった。

 

・皇位継承ルールの革命

こうして持統天皇は皇位継承のルールに革命を起こした。嫡流の直系が自動的に皇太子となるようにすることにより、それまで常識だった「即位には群臣・有力豪族の支持が必要」という継承ルールの柱が抜け、実務経験がなくてもよく、30歳を超えている必要もないことになった。

このような変革が可能になったのは、壬申の乱で旧来の有力豪族が没落し、大王権が圧倒的に強化されたことが背景にある。

この変革により、天武天皇のほかの皇子らは退けられ、持統天皇のもくろみどおり、草壁皇子の子孫が皇位を継承していくレールが敷かれた。

 

697年、持統天皇は弱冠14歳の軽皇子に譲位。軽皇子は文武天皇となり、持統天皇自身はこの若すぎる天皇を後見すべく、みずから太上天皇(上皇)を称した。事実上、持統政権は続いており、のちの「院政」の先駆となる権力形態がとられた。

そして703年、持統上皇、崩御。辣腕を振るい、やるべきことをやり尽くしたうえで、彼女は世を去った。

 

持統上皇没後の展開を簡単に押さえておしまいとしたい。

文武天皇は持統上皇に遅れること5年、707年に弱冠24歳で病没してしまう。その子・首皇子(おびとのみこ)は7歳と幼く、中継ぎとして草壁皇子の妃にして文武天皇の母である阿閇皇女(あへのひめみこ)が47歳で即位、元明天皇となる。元明天皇は55歳で薨去するにあたり、娘の氷高内親王(ひたかないしんのう)に譲位、元正天皇とする。

首皇子の成長を待ち、元正天皇はこれに譲位、聖武天皇とする。

そして、聖武天皇と藤原光明子との間に生まれるのが阿倍内親王、のちの孝謙・称徳天皇である。770年、彼女の崩御をもって、草壁皇子の血を引く皇統は絶えた。

ここに吉野の盟約は果たされ、大津皇子の呪いは完結する。

 

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